(公社)国際経済労働研究所 所長 本山 美彦
大豆の英語表記である"soy"の語源は、日本語の"shoyu"であるとされている。ここで見落としてはならない重要なことは、「大豆」という固体名が、「醤油」という液体名で呼ばれていたという点である。
1643年に刊行された『料理物語』という料理本がある。そこには、江戸時代初期には、原材料として、大豆や小麦などを大量に投入しても、生み出される旨味を持つ液体はわずかの量しかなく、結果的にその液体は非常に高額なものにならざるを得なかった事情が記されている。
液体である醤油が登場する以前には、古く中国の後漢の時代の頃から、穀物に食塩を加えて発酵させた固体ないし半固体状の「醤」(sho)と呼ばれる調味料が使われていた。これを液体にできればとの思いが、本場の中国でも、伝わってきた日本でも、強かったという。人々は、この醤から液体部分を苦心して分け取り、液状の調味料として使う努力をしていたのである。
そうした壁を乗り越えたのが、現在の言葉でいう「バイオ技術」を清酒企業が持っていた江戸時代の日本の酒造業者である。中国とは違う、独特の味を持つ現在の日本の醤油は、この時代に完成した。醸造家達によって生産された醤油が商品としておおいに発展し、当時、世界最大都市であった江戸の市場を席巻していた。日本の醤油は、長崎の出島→バタビア(現ジャカルタ)→オランダというルートで、ヨーロッパに運ばれていた。
当時の「オランダ東インド会社」の『長崎商館仕訳帳』によると、醤油の正式な輸出は、1647年に始まった。1730~60年の期間で見ると、このルートによる醤油の輸出量は、年平均700リットル強であった。もちろん当時の世界では抜きん出た量であった(https://www.kikkoman.com/jp/kiifc/tenji/tenji15/soysauce06.html)。
話を、現在に移す。洋酒業界と異なり、清酒業や醤油などの醸造業の世界は、小企業が多かった。しかし、近年、この業界におけるめざましいバイオ技術の発展によって、この世界でも急速に寡占化が進んできた。地域に根ざした「手造り」の味が急速になくなってきた。しかし、その現実に向き合う姿勢が、日本の「食」の将来を決定することになる。
2024.8