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地球儀 顧客を次々と酔わす魔法の言葉

(公社)国際経済労働研究所 所長 本山 美彦

最先端の流行を生み出し、それを「印象的な短いカタカナ語」に託して大々的にネット社会に拡散させることを、時代の寵児たちはつねに狙っている。料理の世界も例外ではない。食通、食道楽と言っておけば済むものを、「ガストロノミー」(gastronomy)といった新語を使いたがる。これは、古代ギリシャ語の「ガストロス」(消化器官)に「ノモス」(ヒトが作り出したもの)を付け足した合成語である。料理に関するあらゆる知識を駆使すると豪語する「創業者」なる人たちが好む魔法の言葉である。その頭に「分子」を付けただけで、また新しい「分子ガストロノミー」になる。しかし、肝心の分子の危険性については何も語ってくれない、単なる「言葉遊び」でしかない。しかし、この面妖な殺し文句がとてつもなく大きな影響力を発揮している。


昔から2つの窒素原子と1つの酸素原子とが固く結合した常温でのガス「亜酸化窒素」(nitrous oxide、N2O)には、食材を泡立て、柔らかくする機能が備わっていることを、料理人たちは知っていた。彼らが、亜酸化窒素ガスの機能を使いたがっていたのも当然であった。しかし、このガスは、「笑気ガス」(laughing gas)という別名を持っていることからも分かるように、ヒトが吸い込めば、意識を失ってしまう。そういう効能を生かして、このガスを含む溶液は、つい最近まで、外科手術の、全身麻酔に使われ、「世界保健機関」(WHO)にも必須医薬品の一覧として載せられている。しかし、日常的な料理に使うことは、こと日本に関しては2004年まで禁止されていた。そして、その年に解禁した。解禁後、またたく間に、亜酸化窒素を注入したという内容の「新語」が時代の寵児になった。「魔法の料理方法」を想起させる「新語」であった。ほとんどの消費者にはこのガスの有毒性を知らされないままだった。


それが一転、日本政府は2016年、亜酸化窒素を医事以外の分野で使用することを禁止した。したがって、いまでは、亜酸化窒素は料理には使われていないはずである。ところが、2005年に流行った新語が、まるで亜酸化窒素を含んでいるかのように人々を錯覚させて、まだ魔法のように使われている。法令違反になるので、このガスを使ったとは言わないが、このガスの恩恵を受けているかのように、匂わせている。消費者は無知のままである。「美味しい」と満足したままである。恐ろしい時代である。

2024.9

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