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10:岐路に立つカナダ労働運動 前編<1/2>

京都大学大学院公共政策連携研究部教授 新川 敏光

はじめに

カナダは巨大な隣国の陰にあって、あまり注目されることがない。カナダといえば、アメリカの一部のように思われがちである。カナダが経済的にアメリカに大きく依存し、大衆文化や娯楽、生活様式全般にわたってアメリカの影響が広く深く浸透していることを鑑みれば、このような印象も無理からぬところがある。しかし多少なりともカナダについて知れば、加米両国には少なからぬ違いがあることがわかる。たとえば、いまだに全国民をカバーする公的医療保険をもたないアメリカに対して、カナダは1970年代初頭までに国民皆保険体制を実現している。また多文化主義を国是とし
て掲げ、英仏二言語主義を採用している。カナダでは、公文書はもとよりコカ・コーラのボトルにいたるまで、英仏表記が並んでいる。

本稿で取り上げる労働組合をみても、カナダはアメリカとは相当に異なる運動を展開している。グローバル化や自由競争がもたらす負の影響(賃金切り下げ、労働強化、雇用の不安定化、格差拡大など)に抗して団結と社会的連帯を強化する姿勢を示している。これは、貿易のほとんどをアメリカに依存し、しかも1989年には加米自由貿易協定が結ばれ、94年にはメキシコが加わり、北米自由貿易圏が成立していることを考えると、注目に値する。

カナダの労働組合の多くは、かつてはアメリカ労働組合の支部にすぎなかったが、1970年代から独自性を高め、アメリカ流のビジネス・ユニオニズムからソーシャル・ユニオニズムに移行し、今日では社会的連帯を一層推し進める社会運動ユニオニズムの色彩を強めている。グローバル化のなかで労働組合の地盤沈下が特に深刻なアングロ・サクソン系諸国のなかでカナダが例外的に組織防衛に成功しているとすれば、それはこのような運動形態の発展によるところが大きいと考えられる。

1. カナダ労働運動沿革史

1869年フィラデルフィアにおいて服飾産業労働者の間で生まれた「高貴にして聖なる労働騎士団(労働騎士団)」(Noble and Holy Knights of Labour)は1880年代中葉には国境を越え、カナダでも勢力を拡大する。最盛期にはアメリカで70万人、カナダでも数万人の会員がいたといわれる。労働騎士団は、移民や黒人にも門戸を開き(アジア系移民は排斥)、とりわけ女性の組織化に大きく貢献したといわれるが、1886年をピークに、急速に衰退する。この年にアメリカではAFL(American Federation of Labor)、カナダでは、TLC(Trades and Labour Congress
of Canada)が生まれ2、賃金と労働条件改善に目標を絞る「パンとバター」組合主義(ビジネス・ユニオニズム)が台頭し、労働騎士団の、経営側からみると危険な理想主義は衰退した(Palmer 1992: 148-154;Babcock 1974)。

TLCは、サミュエル・ゴンパース率いるAFLの労働組合主義とは一線を画し、イギリス労働運動の影響を受け、労働党結成を謳っていたが、AFLとの関係が緊密になっていくにつれ、ゴンパース流の政治的な無党派主義、政治的中立主義をとるようになった。とはいってもカナダでは、社会改革を求める急進的労働組合がTLCの外で一定の勢力を保ち続けた。ケベックのカソリック・ユニオニズムがそうであるし、TLCから排除された左派労働組合は、1927年ACCL(All Canadian Congress of Labour)を結成する。1938年AFLからCIO(Congress of Industrial Organization)が離脱すると、TLCは、AFLの要請に従って、1939年CIO系労組の追放に乗り出す。追放され組合とACCLが合体して、1940年にCCL(Canadian Congress of Labour)が生まれる。1955年AFLとCIOが再統合を果たすと、カナダでも翌年TLCとCCLが合同し、CLC(Canadian Labour
Congress)が生まれた。

このようにカナダは忠実にアメリカの労働運動の後を追いかけているようにみえるが、アメリカとは異なり社会主義思想が労働運動のなかに生き残っていた。CLCは、結成当初からアメリカ労働運動の政治的中立主義やビジネス・ユニオニズムと一線を画した。CLCは、組合員の政治教育に力をいれ、社会改革を求め、社会民主主義政党であるNDP(New Democratic Party)を支持する。公共部門の組織化が進むと、カナダの労働運動は急進化していく。公共部門では争議権が制限されており、労組がそれに対する抗議活動を組織すると、連邦・州政府から処分を受け、一層対決姿勢を強めるというパターンが繰り返されていたためである。

1970年代中葉から、カナダの労働組合の独自性、アメリカ労働運動との違いがより鮮明になる。1973年石油危機によって、先進諸国はスタグフレーションに悩まされるようになるが、カナダも例外ではなかった。当時、政権にあった自由党ピエール・トルドーは、1975年感謝祭の日に賃金物価統制策を公表する。スタグレーションのなかでインフレ対策を最優先し、消費の過熱を抑えるため賃金上昇を抑制することにCLC会長ジョン・モリスは理解を示し、コーポラティズム的三頭制
システムを目指そうとするが、ほとんどの労働組合はトルドー声明に強く反発し、モリスの動きは内部から官僚主義と批判され、窮地に陥ったモリスは一転して賃金物価統制反対の先頭に立つ。トルドーは1979年に一度政権の座から滑り落ちるものの、翌年復帰、82年には新たなインフレとの戦いを宣言し、今度は公共部門に対象を絞って賃金抑制を行おうとする。

このようなトルドーとの対決を通じて、カナダ労働運動は急進化する。1975年のCUPW(Canadian Union of Postal Workers)の職場放棄から81年のCUPE(Canadian Union of Public Employees)のストに至るまで、連邦管轄内で17回ストが決行され、労働損失日は延べ186万日に上った。そのうち8割は、CUPWによる3度のストによるものであった。公共部門でストが長期化すると、政府は職場復帰立法によって強制的にスト中止を命ずる。1950-69年の20年間に職場復帰令が出されたのは、連邦・州併せて10回にすぎなかったが、75-87年間だけで58回発動された(Palmer 1992: 357-358)。トルドーはもともと社会改革派として知られ、1968年首相となってからは、多文化主義政策を含め進歩的政策を推進しており、1974年連邦下院選挙では進歩保守党の賃金物価統制案に反対していた。したがって1975年の賃金・物価凍結令は、多くの労組にとってトルドーの裏切りと感じられた。しかもトルドーは、賃金抑制に労組の理解協力が得られないと知ると、トップダウン方式でこれを強行した。このような手法は火に油を注ぐ結果と
なった。

1984年に誕生した進歩保守党ブライアン・マルローニ政権は、労組指導者を全国経済会議に招き、政労使から構成される労働市場生産性本部を積極的に活用するなど、当初労働組合に対して懐柔的態度を示す。しかし、マルローニ政権にとって、最優先課題はトルドー時代に冷え切った加米関係をいかに修復するかであった。とりわけ経済界に友人の多いマルローニ首相にとって、強大なアメリカ市場へのアクセスを維持強化することが最大の関心事であった。マルローニが加米自由貿易を推進しようとしていることが明らかになると、保守政権と労組との関係は悪化する。
CLCは自由貿易圏構想を、カナダの社会的・経済的・文化的環境基準と生活様式を破壊するもの、賃金・労働条件の基準を引き下げ、団結権や団体交渉権を弱体化するものと批判し、大々的な反対キャンペーンを展開した。

結局カナダ労働運動は、自由貿易圏の成立を阻止することはできなかったが、労組は自由貿易圏のなかで、社会運動とのつながりを重視した独自の取り組みを行っている。たとえばカナダ国民の誇りともいわれる公的健康保険の維持・改善への取り組みがある。1990年代に巨額の財政赤字に悩む連邦政府は、州への財政移転を減額し、幾つかの州では病院閉鎖、入院のベッド代や食事代、洗濯代など、ホテル・チャージといわれる部分についての患者負担や混合診療の導入といった動きが生まれた。これに対して労働組合は、普遍主義的医療保障擁護の運動を展開する。なかでも目覚ましい活躍をみせたのが、カナダ公務員労組、CUPE (Canadian Union of Public Employees)である。CUPEは、公的保険制度を守り、強化するために、州横断的な個別訪問キャンペーンを展開する。労働組合代表、保健医療専門家や地域活動家が共闘し、健康保険擁護連合を築き、個別訪問キャンペーンの企画から実施までを担った(Mehra 2006)。CUPEは全国に多くの小さな支部をもつ。この分散的性格が、地域での連帯を築く上で功を奏したといわれる。

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