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14:台湾の労働運動--歴史と課題<1/2>

国立屏東大学(台湾)社会発展学科准教授 邱 毓 斌

訳:常葉大学法学部教授 林 成 蔚

1.新しい機会と古い体制の交差―自律的な労組運動の台頭

日本植民地時代の工業化と都市化は、1920年代の台湾にすでに労働者による抗争をもたらした。しかし、その後の戦争動員は、植民地統治にさらなる厳しい取締りを迫り、その時代の労働者抗争および労働組合の組織を壊滅させた。戦後の台湾においては国民党政権が安定した権威主義体制を樹立し、いかなる形の自律的な労働組合の形成およびストライキをも禁止されていた。こうした権威主義的な産業関係は、1980年代の民主化への移行が始まるまで維持されていた。そのため、台湾は東アジア諸国と異なる歴史的なコンテキストを持っており、それは日本と国民党の統治によって、台湾の労働者は50年以上にわたり、集団行動および組織的な動員を経験しなかったことである。

民主化への移行期において台湾社会の様々なセクターが次から次へと国民党の権威主義的な支配に反抗するようになり、長く抑圧されていた労働者も集団的行動の可能性を獲得でき、それまでは使用者のみで決定されていた労使体制を挑戦できるようになった。また、台湾においては1984年にアメリカのプレッシャーによって労働基準法を施行し、労働者の活動に法的根拠が漸く確保された。1987年に戒厳令が解除された後、大型労働紛争が2回勃発し、特台湾の労働運動—歴史と課題に旅客バス業と台湾鉄道、そして南部の石油化学産業のストライキは、政府と使用者に未曾有のプレッシャーをもたらした。実際、製造業のみならず、当時の労働者による集団行為(ストライキ、サボタージュ、抗議など)はメディア、病院、銀行、空港などのサービス
業の労働者にも及ぼしていた。また、ガラス、紡績、そして輸出加工区における靴産業の工場閉鎖をめぐる抗争は、グローバリゼーションによって伝統産業が台湾から消え去る幕開けを周知させる出来事でもあった。

これらの行動によって台湾の労働者は集団組織の重要性を徐々に認識しはじめた。事業所にすでに労働組合のあった労働者は、自らが所属する組合は飾りにすぎず、労組自体は企業の経営幹部あるいは国民党支部によってコントロールされていた。民主化移行期の労働者にとって、これらの「御用組合」の改造と、まだ労組のなかった企業において労組を結成させることは、最大の急務であった。「労働組合組織化運動」と呼ばれていたこの運動は多くの労働者に組織的な保障を獲得させるものであり、1989年1年間だけでも、104個の労働組合が新たに成立した。

しかし、この自律的な組合運動は真空状態から浮上したものではなかった。国民党の権威主義体制、あるいは国家コーポラティズムは、労働組合組織運動に様々な影響を及ぼしていた。当時の国民党政権は、労働組合の設立をむしろ促したが、そのかわり、設立された労組は、党の地方支部と事業所の支配下におかれるように、独自の労働組合統制メカニズムを作り上げていた。また、これらの労組は必ず、唯一の総連合かつ御用頂上団体であった「中華民国全国総連合」(中華民国全国総工会)に加盟させられていた。

もう1つの巧妙な仕掛けは、労働組合法によれば、労働組合として許可されるのは、二種類の組合のみであったが、一つは「産業労働組合」、もう一つは「職業労働組合」であった。前者は同じ事業所あるいは企業が30人を超えて雇用する場合に作られる組合であったため、これらの組合を「産業組合」と称するのは決して正確ではなかった。なぜなら、当時の台湾の労働組合法においては労働者が産業全体を範疇とした労働組合の形成が許されていなかったからである。これらの「産業労働組合」は、むしろ「事業所労働組合」として捉えたほうが現実に適していた。

後者の「職業労働組合」は、一定した雇用主のいない労働者、自営業者、小企業(被雇用者数10人以下)の労働者が「労働者保険」(労工保険)の加入を代行する組織として作られていた。これらの「組合」は、保険料納入の業務を代行することによって国から委託費用を受給し、組合員の数も安定していたため(これらの組合に加入しないと労働者保険に加入できないから)、長期にわたって使用者や政治家によってコントロールされており、国民党権威主義体制の支持者であった。従って、国民党による権威主義体制の統治の基では、労働者は3つのグループに分断されていた。一つは、「事業所労働組合」に適した30人以上を雇用していた企業(労働者の約3割)、もう一つは労働者保険に加入するために加入する、10人以下を雇用する企業あるいは自営業者が作る「職業労働組合」(約5割)、そしてどの種類の組合にも加入できなかった労働者(約2割)であった。

2. 民主化前の挫折:政府と使用者が連携して組合を鎮圧

1987年に台湾において戒厳令が解除されるまでの自律的な労働組合運動は、すべて「事業所労働組合」によって引き起こされていた。その理由は、これらの労働者は、同じ企業あるいは事業所に属していたがため、同じ管理体制に直面し、労働者同士が集団的アイデンティティと行動意識を形成するのがより簡単であったからである。しかし、もとより中小企業の多かった台湾において、事業所ごとに作られていた組合は、規模が小さく限定されていた1。例えば、1990年の平均組合員数は、519人しかなかった。こうした組合の事情と規模によって、事業所ごとの長期
的な抗争は決して容易ではなかった。

一方、80年代に顕著化した台湾の労働運動と環境保護運動は、労働コストの抑制と環境コストの外部化に慣れていた台湾の使用者たちにとって大きな困惑となっていた。1988年に李登輝が政権を継承した当時の政治情勢が不安定であったのを利用し、台湾の使用者たちは結集し、政府に対して投資環境の悪化について強い不満を示し、社会秩序を著しく乱している社会運動を糾すように要求した。彼らによる最も激しい反撃は、石油化学業のフォルモサ・プラスチックが、1989年1月に環境保護と労働運動の高揚を理由として、台湾における人事と投資をすべて
停止するのを発表したことであった2。資本家の要求に対する李登輝政権の反応は素早いものであった。総統府以下各レベルの政府組織は、密集的に様々なプロジェクト会議を開き、「外部勢力による労使紛争への介入」を断固として排し、公権力を貫徹させることを表明した。そして、1989年から政府と使用者たちは、後に研究者によって「帝国の大いなる反撃」と称されていた労働運動への弾圧行動を展開した。その結果として、活動的であった多くの組合が消滅し、1989年から1993年までに推定200人以上の組合幹部が解雇され、40名を超える組合幹部あるいは組織運動家が起訴され、有罪判決が下されたといわれている。いうまでもなく、これらの動きは労働組合運動に対する抑止効果をもっており、1990年代前半において多くの労組幹部は結局事業所での活動に終始し、組合の存続を最優先化した。解雇された多くの労組幹部は「事業所組合」における活動を継続できず、労組運動から脱退せざるを得なかった。彼らの
ごく一部のみが労働問題にかかわる非政府組織(labor NGOs)において活動を続けられた。

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