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14:台湾の労働運動--歴史と課題<2/2>

3.「事業所労働組合」運動のピークと限界

1990年代半ばに入ると、民主化の進行と政党競争の激化によって自律的な組合に対する国家権力による弾圧のリスクが低下し、新たな勢力が自律的な労組運動に参加した。一つは、県、市など自治体レベルの産業連合(産業総工会;federation of trade unions)であったが、それは事業所ベースの弱小労働組合体質が根本的に解決される前に、労働組合運動が取った戦略の一つであった。つまり、集団の力を通して個別事業所における労働者の抗争に協力するということであった。1994年に結成された「台北県産業連合」(台北県産業総工会)から始まり、
2000年には10個の自治体(県、市レベル)に「産業連合」が結成され、これらの連合に所属していた労働組合は、350から400個ほどあった4。もう一つの新興勢力は公営事業であった。1991年に行政院(内閣府に相当)が民営化政策の促進を始めたことによって、公営企業従業員の危機感が募り、これらの公営企業の大型労働組合の総会における選挙は自主的労働運動の労働者が勝利し、従来の国民党による労組統制から脱却した。

一方、これらの新興勢力は、より現実的な運動路線をとっていた。1990年代前半の挫折によってもたらされた経験に基づいて、彼らは労働組合の存続を最優先し、既存の組合員の利益を保障することを大前提としていた。また、スト等対立的な行動を取るのも可能であれば回避していた。そして、1997年に8つの自治体の「産業連合」と8つの全国レベルの大型労働組合(7個が公営企業組合)が集会を開き、「全国産業総連合」(全国産業総工会;Taiwan Confederation of Trade Unions)の成立を決議し、それまでの御用頂上団体であった「中華民国全国総連合」による独占体制を挑むことになった。「全国産業総連合」は準備段階から28万人もの組合員
を擁する実力を見せつけることができたが、その現実路線によって自らの活動は「事業所労働組合」の枠組みに挑戦せず、「すべての組合員の期待に応えられること」が労働組合の最高運営準則となった。2000年に結成された「全国産業総連合」はまさにそのような労働組合運動を背景としていたものである。また、2000年の総統選挙に勝利した民進党の陳水扁氏は、法的改正を経て「全国産業総連合」の法的位置づけを確立させることを公約し、その結果として、50年にわたる総連合独占体制が終焉を迎えたのであった。

嘗ての御用総連合の保守的な立場に比較すれば、「全国産業総連合」はより積極的に所属労組の訴求に応えようとしていた。しかしながら、規模がより大きい公営企業の労組が2003年から2005年あたりに徐々に主導権を握るようになったことに伴い、「全国産業総連合」は公営事業の労組の関心事に多くのエネルギーを費やすようになった5。派遣労働者や無給休暇など労働の「柔軟性」をめぐる問題には関心を示さなかった。そのため、民営企業を中心とするいくつかの自治体の産業連合は、「全国産業総連合」に強い不満を抱き、相次いで「全国産業総連合」から脱退した。2007年にこれらの産業連合は新たに、他の全国産業総連合のメンバーではなかった労働組合とより緩やかな連合団体である「連帯」(団結工聯、Solidarity)を結成した。

しかしながら、1990年半ば以降の自律的な労働運動は、労働基本法や失業保険の設立などいくつかの問題に関しては具体的な成果をあげてきたが、組織的な実力は衰退し続けていた。過去20年間において、使用者/資本家によって労組の組織範囲、規模の大小が決定されていた「事業所労働組合」は、組織率、労組の数、組合員数などにおいてすべて減少してきた。すべての「事業所労働組合」の組合員数は、全被用者の6.8%のみであり、約1割の企業にのみ労働組合が結成されている。組織率が衰退してきた最も重要な理由は、「旧い者が去っても、新しい者が来ない」ことである。組合員が工場閉鎖やリストラにあえば、他の事業所労組の組合員になる可能性は極めて低く、新たな事業所組合を作ろうとしても、プレッシャーなどを恐れない同僚を30人掻き集めなければならないことになる。さらに、事業所労組のあり方は、労組自体に既存の組合員にかかわる事のみに関心がもたれ、事業所外のことに興味を示さないように作られている。結果として、台湾の事業所労組は、長年の制度的な慣習によって「組織」よりも、「サービス」の提供者になってしまった。労組のリーダーシップは、組織率の低下や多くの職種に労働組合が存在していない状況に対して焦燥感を覚えてはいるが、彼らの限られた労組をめぐる経験と想像力から、具体的な対策を打ち出すところには至っていない。

 
4.結論:新たな労働運動の始まり?

台湾の労働運動においては、早くから国民党が実施していた労働組合法が労働組織の発展を制限していたことが指摘されていた。そのため、1990年代半ばから、多くの労働問題を扱うNGOや労働問題の研究者は、労働組合法の改正を要求していた。その最も重要な要求の一つは、多元的な労働組合組織の開放であり、特に職種労働組合の解禁であった。しかし、当時の国民党政権は、終始して開放に反対していた。この状況が打開されたのは、2000年の総統選挙前であった。激しく選挙競合していた中、各政党の候補者が労働者の要求に歩み寄り、労働組合組織の多元化をめぐる合意が達成された。そして、2000年から2008年までの民進党政権の間に、労工委員会(労働省に相当)は、労働問題を扱うNGOや研究者とさらに協議を重ねた上、「労組多元化」という概念を労組法の改正案に組み込んだのである。この労組法の改正草案は、政権交替を経て、2011年に漸く可決され、以前より許可されていた「事業所労組」と「職業労組」以外にも、「職種労組」の結成が許されるようになった。これが意味するのは、台湾の
労働者は、事業所、企業、地域を超えて労組を結成することができるようになったことである。改正案が実施されてからの過去3年間において、すでに警備員、社会福祉士、電子産業被用者、大型スーパー従業員などが、職種労組を結成した。また、労組法の改正は、教師の団結権が確認され、小中学校教師や高等教育教員などもこれに基づいて新しい労働組合を成立させたのであった。

こうした制度上の変化は、嘗ては集団的に声をあげることの出来なかった労働者が自らの労働組合を結成する機会をもたらした。しかし、この新しい労働組合をめぐる展開にはまだ多くのボトルネックを抱えている。まず、これまでの台湾における労働運動は、すでに具体的な労使衝突が問題視されている事業所における労組の立ち上げ、運営についての蓄積はあるものの、顕著な労使紛争がないサービス業において職種労組を発展させるには、まだ十分な組織戦略と
ノウハウを持っていない。同様に、極めて不利な立場を強いられる非正規労働者、例えば派遣労働者、パート労働者、外国人労働者などに関する経験とノウハウも欠如している。諸外国から学ぶと同時に、台湾に適した自らの経験を早く累積することが求められている。

次に、資本の国際化によって労組は、台湾を母国とする多国籍企業をはじめとし、中国を含むその他の国から発祥した多国籍資本を挑まなければならない。言い換えれば、労働組合自身の国際的視野、研究能力、そして国境を超えた連帯を形成する能力などを全部引き上げなければ、有意義な組織作りと集団的協議の効果を獲得することができないのである。これまで欧米での「非組織的な人々を組織する」(organized the unorganized)の試みを鑑みると、これらの努力の背後には常に強力なナショナル・センターがあったことである。台湾のナショナル・センターはなおも狭隘的な「事業所労組」主義に囚われており、既存の組合員へのサービスを重視しすぎている一方、組織の開拓を軽視している。その結果として、労働組合運動の全体図をめぐる構想、人材育成、資源の調整および全国レベルの問題提起(national campaign)は、資源などが圧倒的に少ない自治体レベルの産業連合に頼ることになり、成果も自ずと限定的になる。

これらの労働運動と労働組合の展開が果たして自らの戦略的視野を引き上げ、権威主義体制の遺制である「事業所労組」主義を超え、職種別(ひいては職種を超えた)労組の構造に転換させることが出来るかどうかは、これからの台湾における労働組合運動の移行が成功するか否かを左右することになる。台湾経済に見られる2つの趨勢−一つは経済のグロバリゼーション、もう一つは国民党と中国に大量投資している資本家集団が連携し、中国経済との統合を推進していること−は、すでに台湾の労働者に多くの問題をもたらしている。労働運動が引き続き労働者の利益と分配の正義を重んじる役割を演じ続けたいのであれば、より包括的、かつ組合員の基礎が広がる組織の新しい方向をみつけなければならない。注目に値する現象の一つは、16年にわたる賃金の停滞、労働柔軟性の乱用によって、労組組合員の家計がかなり苦しくなり、一部の「職業労組」はこれまでの保守的な立場を変更させつつあることである。また、2014年3月に、中国とのサービス貿易協定の締結をめぐる国会占領の運動の一環として、一部の職業労組、事業所労組、そして新たに設立された職種労組が、連携して行動を取り、中台にわたる政
治家と資本家の利権同盟関係に異議を唱えた。このような展開が持続されれば、台湾の労働運動にも新しい風が吹き、新たな動力を得られるに違いない。

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