早稲田大学社会科学総合学術院 教授 畑 惠子
1.転換点の1980年代
メキシコでは1982年の債務危機を契機に、国家主導の開発主義から市場重視の新自由主義へと経済政策が転換された。その影響は大規模な民営化、雇用関係の柔軟化といった経済領域だけにとどまることなく、1929年以来メキシコを統治し国家とほぼ一体化した制度的革命党(PRI)体制にも重大なインパクトを与えた。党内部で経済テクノクラートが台頭するとともに、国家機能の縮小にともない農民、労働、一般(公務員・教員)の3部会構造にもとづく旧来の国家コーポラティズム体制の機能不全が始まったからである。そして2000年の大統領選挙での野党国民行動党(PAN)の勝利をもって、71年にわたるPRI支配は終焉した。PRIは労働組織をその傘下におき、両者の協調(実際にはPRIによる労組統制)によって、経済発展と政治的安定を実現してきた。しかし80年代の経済危機とその後のPRI体制の弱体化・終焉は、相互依存的な国家・労組関係を揺るがした。
80年代以降のグローバル化に適応した経済構造への再編は雇用の第三次産業化、製造業雇用の低下とその一方での北部国境地帯でのマキラドーラの成長(NAFTA締結後は全国に拡散)、不安定雇用の増加、インフォーマルセクターの拡大、女性の労働参加の増加などの変化をもたらした。インフォーマルセクターとは労働法や社会保障制度の適用を受けない、都市部での不安定な低賃金就労を意味し、メキシコでは都市労働人口の約45%を占めている。1986年にWTOに、1996年にはOECDに加盟し、今や世界第15位の経済規模を誇る新興国であるが、その就労構造は途上国型である。フォーマルセクターに属す組織労働者は、さまざまな利益を享受してきた。だがもとよりその権利が十分に守られてきたわけでなく、80年代以降には労働資本関係の変化にと
もないその傾向は強まっている。本稿では経済の市場化・自由化を急ぐメキシコにおいて労働運動を取り巻く環境がどのように変化し、労働組織の再編がどのようになされてきたのかを整理する。
2.官製組合主義の衰退と生き残り
メキシコの労働組織・労働運動の特徴はPRI体制に組み込まれてきたこと、すなわち官製組合主義(official unionism)にある。PRIの前身である国民革命党(PNR)が1938年にメキシコ革命党(PRM)に再編された際に、農民、労働、一般、軍の4部会を下部組織として党内に組み入れ、各部会には主要な組合が包摂された。その後1946年のPRM改編(軍部会の廃止等)により現在のPRIとなった。PRIは農民、労働、一般の各部会の組織票と実利分配(労働条件、社会保障、政治ポストなど)の交換に基づいて、2000年まで長期政権を維持した。とりわけ、第2次世界大戦後から1970年代初めまでの輸入代替工業化の成功と安定成長は、PRIと労働部会の相互依存関係によるところが大きかった。
労働部会は1936年に発足したメキシコ労働者連合(CTM)、石油、鉄道、電力などの基幹産業組合を、一般部会は公務員労働組合連合(FSTSE)、教育労働者組合(SNTE)を中心に構成されていた。1966年には労働団体間の対立を解消するために労働者会議(CT)が発足した。CT加入団体はすべてPRI系であり、CTは今日までCTMによって主導されている。ゆえにCT-CTM体制と称される。1979年時点で労働組合員は84%がCT系で、独立系はわずか9%であった。組織労働者に対しては健康保険や年金などの社会保険制度、住宅基金が整備された。これらの福祉制度や労働に関わる委員会で代表権をもつCTMは、特権的にその加盟組合にある程度の実利を分配できた。他方、CT系労組ではリーダーの腐敗が顕著で、ボス支配が横行し非民主
的な運営が日常化していた。PRI政権下ではそれは黙認されていたが、90年代末から組合の民主化が労働運動の焦点の一つとして浮上した。
他方、経営者団体には、全国商業会議所連合(CONCANACO,1917年設立)、全国工業会議所
連合(CONCAMIN、1918年)、メキシコ経営者連合(COPARMEX,1929年)、全国製造業会議所
(CANACINTRA,1941年)などがある。1930年代後半に労働組織の大半が革命党の部会構造に包摂されたときに、一定の資本を持つ企業には商工会議所への加入が義務付けられた。こうして国家コーポラティズムの基礎が築かれ、以後、国家主導の産業育成と政府調停による労使協調が図られてきたのである。だが、COPARMEXなどは伝統的にPRIから距離を保ち、むしろ中道右派の国民行動党(PAN)に近い立場をとってきた。そして、後述するように、PANとCOPARMEXは歩調を合わせて労働法改正を牽引することになる。
PRI体制の下で労働団体、経営者団体は、政府(労働省STPS)を調停者とする三者協議機関、具体的には全国最低賃金委員会(CNSM)、労働調停仲裁委員会(JCAs)などを構成し、それら委員会ではCTMが労働者代表の過半数を占めてきた。しかし政府の目的は労働者権利の擁護というよりも、その要求の統制と急進的な独立系労働運動の封じ込めにあった。PRI系労働団体は様々な企業で「防衛的契約」(protection contracts)を結び、他の労組の結成を妨げることで、政府に協力的な役割を担ってきたのである。防衛的契約とは、実体のない労組(幽霊組合)を登録することによって労働者の自主的活動を抑え込み、企業利益を防衛することを目的とする。90年代末には全組合の50 ~ 70%がそれに該当していたとみられている。
80年代から90年代半ばにかけては、CT系、独立系を問わず労働争議が頻発した。だが政府は一切妥協せず、反政府的な組合リーダーには暴力的手段を用いてまでも対決姿勢で臨んだ。CTMにもさまざまな揺さぶりをかけた。徐々にCT系労働団体は抵抗を弱め、労働団体、経営者団体、政府間の三者協定を受け入れるに至った。たとえば1987年の最初の協定はペソ切り下げ、緊縮政策、インフレ抑制、賃上げ抑制、貿易自由化などを骨子とし、労働者に忍従を求めるものであった。以後、同様の三者協定が繰り返し締結された。
経済の再建と自由化を進める政府にとって、労働運動は統制すべき対象であると同時に、NAFTA締結などの政策を実現するためには、その支持が不可欠でもあった。政府はCT系であっても反政府的な活動を徹底的に抑え込む一方で、その既得権益を擁護するなど、硬軟合わせた対応をとった。雇用の柔軟化と組合内の民主化を含んだ労働法の改正に着手しないことも、CT-CTMを政府に協力させるための有効な手段の一つであった。こうしてPRIとCT-CTMは以前よりも著しく不均衡になった力関係の下で連携を維持した。だがそこで守られたのは一般組合員の利益ではなく、組合ボスの既得権益の一部であった。不正が蔓延し非民主的慣行が続く労
組では、組合離れが加速した。CT、CTMの組合員数は、1990年代末にはそれぞれ1100万人から550万人、500万人から200万人に半減し、比較的組織率の高い石油労組でも、1992年の20万人から90年代末には7万2000人に減少したと言われる。OECDデータベースによると、メキシコ全体の組織率は1984年24%から漸減し、1996 ~ 2009年には15 ~ 17%台を上下したが、2010年には15%を切り、2012、13年は13.6%にまで落ち込んでいる。しかも、こうした組織率の低下はすべての部門・地域において生じている。