機関誌Int

lecowk

16:ブラジルの労働運動ー歴史的変遷と現状ー<1/2>

日本貿易振興機構 アジア経済研究所 近田 亮平

はじめに
 本稿の目的は、ブラジルの労働運動の歴史的な変遷と現状について理解を深めることである。そのため、ブラジルの労働運動の歴史を、初期とコーポラティズム体制、軍事政権と「新しい労働運動」、新自由主義的な労働法制改革の3つの時期に分け、それぞれの時代における労働運動の特徴について概観する。

1.労働運動の初期とコーポラティズム体制

ブラジルの労働運動は、帝政だったブラジルが奴隷制廃止(1888年)の翌年に共和国宣言を行い、近代国家としての道を歩み出した第一共和期(1889 〜1930年)を黎明期としている。ブラジルでは19世紀後半からサンパウロ州を中心にコーヒー産業が興隆し、コーヒー農園での賃金や労働条件をめぐるストライキが発生するようになった。そのため、ブラジルの労働運動は農村部に萌芽が見られたが、都市化や産業の発展により都市部へ主な舞台を移していった。当時の首都だったリオデジャネイロ(以下、リオ)では、19世紀末に最初の労働者の政党が結成されるなど、資本主義経済をめぐる階級や政労使関係が形成されるとともに、徐々に労働者の組織や活動が活発化するようになった。 

ロシア革命が起きた1917年から1920年の間、リオやサンパウロなどの主要都市において、第一次世界大戦による生活必需品の欠如や世界的な共産主義の影響から、労働者としての最低限の権利を要求する大規模なストライキが続発するようになった。特にコーヒー農園での労働力として多くの外国移民を受け入れたサンパウロでは、工業の発展とともに外国人を中心に労働者の組織化が進み、労働運動がより活発に行われた。これらの労働者による大規模なスト
ライキに対して、政府は厳しい弾圧を行うとともに、政治家や企業家は労働運動の要求に強く反発した。その結果、労災や有給など一部の労働者の権利に関する法律制定という成果を上げたものの、当時の労働運動は1920年以降には衰退の一途をたどった。

1930年になると、独裁的なヴァルガス(Getulio Vargas)大統領(1930 .45年, 51 .54年)の登
場により、ブラジルの労働運動は新たな局面を迎えた。ヴァルガス政権下では、「新国家」体制という権威主義にもとづいた近代国家の建設が推し進められ、労働運動が国家のコーポラティズム体制に組み込まれていったからである。

ヴァルガス大統領は、労働者を保護するさまざまな法令などを体系化した労働法典(CLT)の制定をはじめ、労働者の基本的な必要を満たす最低賃金を制度として導入するなど、「労働者の庇護者」としてのイメージをつくり上げるよう試みた。その主な目的はコーポラティズム体制の構築、すなわち、人口増加が進む都市で形成されつつあった労働者階級を国家の支持基盤として動員するとともに、労働者の反政府的な組織化を抑え込むことであった。労働組合を垂直的な支配構造における政府に従属的な機関とすべく、原則一業種で複数の労働組合の結成は認
められず、国家による労働者の統制が図られた。また、ストライキやロックアウトは禁止され、ブラジル共産党(PCB)などの左翼組織に対しては厳しい弾圧が加えられた。

このようにブラジルの労働運動は、労働者が労働組合を通して政府のコーポラティズム体制内に組み込まれるとともに、独自の活動に対しては政府による弾圧や大幅な制限が強化された。そのため、近代化を推進する「新国家」の構築とともに、労働運動は低迷期を迎えることとなった。

しかし第2次世界大戦を契機として、独裁的なヴァルガス大統領に対して、自由主義的な反政府派の勢力だけでなく政府内の不満も強まると、それまでのコーポラティズム体制にほころびが生じるようになった。民主主義的な自由が徐々に回復するなか、禁止されていた労働者のストライキが1945年に復活すると、ブラジル経済は戦争の影響から景気が悪化したため、都市部でストライキが続発するようになった。特に、コーヒー産業の発展により市場やインフラなどの近代資本主義経済の基盤が整備されたサンパウロでは、人口の集中と産業の多様化が進んだことから、様々な業種の労働者がストライキに多数参加した。1953年に行われたゼネストでは、ヴァルガスを「帝国主義の手先」と非難する共産主義者が中心的な役割を果たし、参加者の規模は30万人にも達した。

1950年代後半以降、政府が統制する公式の枠組みに収まらない労働組合が結成されるなど、ブラジルの労働運動に更なる変化が見られるようになった。その主な要因として、政府が育成に力を入れた自動車産業が挙げられる。外国資本によるフォーディズム型の自動車産業の発展により、工場が多数建設されたサンパウロ近郊へ多くの労働者が集中し、多国籍企業の新しい労使関係が浸透していった。当時の労働運動は、全国でストライキの頻度を増加させる傾
向にあったが、利潤を優先する外資系民間企業が多く労働組合が民族主義的ではないサンパウロでは相対的に衰退していった。一方、近代的な産業構造変化に適応できなかったリオの国営企業などの労働組合は、体制への依存を強めていった。また、それまでのポピュリスト政治に包摂されていなかった農業労働者にも、労働条件の改善を目的とした労働組合の結成など、自身たちや政府による組織化の動きが見られるようになった[ファウスト2008]。

一覧へ戻る