大きな物語から小さな物語の束へ、そして協同主義デモクラシーへ
本シリーズの出発点において、筆者は次のように述べた。労働者階級、具体的には労働組合は、特定の人々の利益を守るために生まれたにせよ、近代で モクラシーのなかでその利益を擁護するために、より一般的な利害や普遍的権利を訴えるようになっていった。彼らは、近代デモクラシーの主たる担い手となったのである。今日デモクラシーが活力を失い、政 治が経済を管理できなくなっている背景には、労働運動の低迷、その社会的認知度の低下がある。
もちろん21世紀の今日、労働運動の歴史的役割を回復せよなどといわれても、鼻白む向きも多いだろう。利害が複雑に錯綜する今日の社会で、労働者階 級などといっても実感が湧かないだろうし、そもそも労働組合は、正規雇用労働者の特権を擁護する存在 に過ぎないという批判も強い。にもかかわらず、資本の論理に対抗し、生活世界を守る運動の核として、労働組合に代わる存在は他に見当たらない。資本と 労働の緊張と対立は、資本主義経済の続く限り、なくなることはないし、資本の暴走に対して労働運動が歯止めをかけ、生活世界を守ることの必要性は、今 日なくなるどころか、一層高まっている。
労働者階級などというものは今日存在しないという前に、歴史的にみれば、それは市民権を獲得し、自らの生活を守る運動のなかから社会的に構成されてき たものであることを忘れてはいけないだろう。主体としての労働者階級は、歴史上忽然と姿を現したわけではない。資本との長い対立や対決の過程のなかで、徐々に階級とみなされるようになっていったと考えたほうがよい。そして労働者階級なる資本への対抗勢力が形成されることで、資本主義はより高度な形態へと発展するモメンタムを獲得できたのである。
資本主義経済とデモクラシーは、緊張関係を孕み ながらも、いや緊張関係ゆえにこそ、民主的資本主義、福祉資本主義といわれるような調整形態を生み出した。両者を媒介したのが、労働運動である。今日 その役割を改めて活性化する上で必要なのは、社会主義革命といった大きな物語の復権ではない。歴史のなかに人間解放を読み込む大きな物語では、今日の複雑化し、断片化された世界をうまく捉えることができない。むしろ個別状況に合わせた小さな物語を紡ぎ、編むことから、デモクラシーと資本主義の新しい調整形態を考える必要がある。
以上のような筆者の問題意識を真摯に受け止め、日米の文脈に即してより具体的かつ包括的に議論 を展開したのが篠田徹論文「小さな物語が繋がり支え合う 大きな世界の労働運動」である(注3)。篠田は、反面教師と思われがちなアメリカ労働運動においてこそ、今日小さな物語を紡ぐ社会運動ユニオニズムの研究が台頭しており、そしてその背景には19世紀以来の「改革伝統」があり、左右を超えた草の根の人民主義運動(ポピュリズム)があったこと、それらのなかにこそ平等とよりよい社会を目指す運動文化が 見出されることを指摘し、アメリカのなかで労働運動 がそれをこえた改革伝統と合流し、運動文化を生み出していく可能性を説く(注4)。
翻って、日本はどうであろうか。篠田は、初期総評を支えた伝説的な労働運動指導者、高野実の提唱 した「ぐるみ闘争」に着目する。「地域ぐるみ」、「町ぐるみ」、「家族ぐるみ」という多彩な高野の闘争方針は、日本の労働組合、とりわけ総評のような連合体が、企業別組合を中心とする一種の民衆組合であったという点を考えるなら、社会運動ユニオニズムや小さな物語の積み重ねとしてあったのではないかと歴史的な再評価を求める。
篠田は、そのような観点から、反核・反戦運動、平民社、等々の実証研究を検討しつつ、アソシエーティブ・デモクラシー(協同主義デモクラシー)へとたどり着く。それは国家と市場から個人を守る選択的協同体(運命共同体ではなく、自発的意思によって参加 し、形成される協同体)であり、トクヴィルがかつてアメリカ民主主義の鍵として見出した中間団体を現代的に再生しようという試みである。協同主義デモクラシーは今日の代表制民主主義に取って代わるもので はなく、それを補完し、より円滑なものとし、市場から生活世界を守るものである(新川 2014参照)。
脚注
3:本シリーズに掲載された論考については、参照文献中を示さない。
国際経済労働研究所のホームページからアクセス可能である。
4:ちなみにかつてはアメリカ労働運動の圧倒的な影響力下にあったカナダでは、1960年代から労働組合カナダ化(自立化)が進み、アメリカ流のビジネス・ユニオニズムに対して、階級的対決路線と政治的コミットメントを鮮明にすることによって、労働運動の強化と社会運動ユニオニズムへの移行がみられた(新川敏光「岐路に立つカナダ労働運動」参照)。