3.小さな物語の「現地」
グッドウィンの著作が公刊されたのが1975年。これを謂わば先途に米国では、60年代初頭にケネディ大統領の登場で政治に目覚め、その後公民権運動、ベトナム反戦運動、学生運動等を経て、それまで封印されてきた米国の運動文化のパンドラの箱を開けたベビー・ブーマー世代の活動家達は、「叛乱の季節」が暮れる中、この頃から今後の運動方向を過去の運動経験に学ぼうと、小さな物語が繋がり支え合って大きな世界を創る米国運動の歴史的な在り様を様々に再現するため研究者になっていく(グリーン 2003)。
そうした努力は80年代に入り続々と成果を得る、例えば先のグッドウィンの人民主義運動研究に大いに触発され、そこに見出された運動文化の議論を米国運動史においてより敷延せんと試みたのが歴史家のサラ・エバンズと政治学者のハリー・ボイトだ。
従来民主主義を強化し、市民社会を深化させる議論は、法律や条令、選挙制度や行政組織等政治制度の仕組みを巡って行われるのが大方の常だった。だが民主主義や市民社会の充実は、そうした民主主義や市民社会を拡大進化させるための制度的整備に留まらない。同時にそれは、個々の市民が己が生の日常として自身がその進化拡大の過程に関与するのに必要な物の見方、考え方、振舞い方、即ち他者の発言に耳を傾け、己が意見を相手に伝え、職場や地域等己が生の世界の直近の場でその成員にとり善と考えられる事を共に為す、そうした共生の術を学ぶ場を創出し増大する事でもある。だとすれば、民主主義を強め市民社会を深める議論の際にこれまで当然視していた用語とそれが用いられる文脈、例えば「政治」や「公的活動」と「仕事」や「私的生活」等の語群間に半ば公然と横たわっていた溝、或いは「公」と「私」の世界の間の相互の疎外感の意味をもう一度考え直さざるをえない。何故政治や行政の日常が「他人事」や「彼ら彼女らのこと」で、そこに自分達の声は聞こえず顔も見出せないと思うのか。
つまり、己が日常の生活経験での個々の思いが繋がり支え合って社会の集合的な希望や可能性と成って行く過程、またそうした過程を経て自分達が共有するに至った社会の目標に向かって、個人や家族が日常の職場や地域の生活で行う仕事や活動や余暇等が、それらを実現していくため自分達の間で担い合う行為として、どんな意味を持ち如何に繋がって行くものなのか具体的に思い描けなければ民主主義は画餅に終る。
エバンズとボイトが出発した問題意識は約めて言えば此の様ではなかったか。ここから先ず、実際に草の根の様々な運動に直接関わりながら米国の民主主義を強め市民社会を深める在り様を観察した二人は、同時にグッドウィン等先輩の著作や同輩後輩等の研究に触発されつつ米国の社会運動の歴史を入念に読み返し、そこで創出された多様なコミュニティの中に、新しい自尊心の形とそれと繋がったより深くかつ確信に満ちた集合的なアイデンティティを見出した人々が、共生のための社会的なリテラシー、他者と協力する事の大事さ、更に市民として成員と共同善を成すのを学ぶ事が出来る「公共空間」があるのを見つけ、それを「解放区(Free Space)」と名付けた。別言すれば、解放区とは、市民が自尊心と自立心と想像力を以て、「良い社会」に生きたいと行動するための、私的生活と社会的機構の間に設けられた舞台装置だ。
エバンズとボイトに拠れば、そういう場はこれまで多くの場合、宗教組織、社交クラブ、自助や相互扶助のための団体、社会改革のために働くグループ、隣人同士、市民同士、あるいは同郷同士が作る会、そして他の地域生活を織りなす様々な集団等、開放的で参加しやすい自発的な結社の中で現出して来た。もっとも解放区は、最初からそのためだけに作られたり現われたりするのではない。実際にそれは、自由と民主的な参加を求める階級や人種やジェンダーや他の社会的争点集団の動きと合体しながら様々な登場の仕方をするのであり、その時代と場所によって解放区を形造る顔触れやそれが族生する場所、そしてその発生を巡る社会的な力学は変わって来る。
つまり同じ運動や組織がその環境に適合しながら一貫してそうした場となったり、在る時や場所ではそうであったりなかったりと、解放区の歴史は運動横断のそれなのだ。例えばアフリカン・アメリカンの教会は、南北戦争によって彼ら彼女らが奴隷の身分から解放される以前から、そして解放後間もなく人種隔離政策等別の形の人種差別を再び受けた後第二の解放を目指した1950年代、60年代の公民権運動迄、アフリカン・アメリカンの人々にとって大事な解放区を提供し続けて来た。また農民運動では前述の一九世紀後半、中西部を中心に広く米国をおおった人民主義運動が、またしばしばそれと行動を共にした労働騎士団(Knights of Labor)、或いはウォブリーズの名で親しまれ下層底辺労働者の間に支持を広げた世界産業労働者同盟(Industrial Workers of the World)、更に1930年代にニュー・ディールと共に登場し当時近来の東南欧移民やアフリカン・アメリカンの労働者が殺到した産業別組織会議(Congress of Industrial Organization)等の労働組合は、労働者達にとって夫々解放区となっていった。更に女性達も、彼女達が中心になって進めた運動、例えば禁酒運動や婦人参政権運動は無論、先に紹介した物を含め様々な社会運動に関わりながら、その中で自分たちの解放区を見出して行った。
この米国の改革伝統を受け継ぎながら、運動文化を育む「現地」としての解放区の歴史から、平等とよりよい未来に向かうことを自分の問題として突き詰める「小さい物語」の合奏が聞こえないか。ではこのおそらく最初は調子っ外れな音合わせを、やがて時には立派な交響曲の大音響を奏でる迄に練習を積ませたのは誰なのか。
4.「小さな物語」を繋ぎ合せる人々
このエバンズとボイドの新しい運動史研究と並走共鳴していたのが、80年代以降米国歴史研究で一世を風靡する新しい労働史研究だ。この新しい労働史研究の担い手も、エバンズとボイド同様米国の民主主義と市民社会の在り様を過去の運動経験に学ぼうとしたベビー・ブーマーの活動家達の一群だが、この集団のリーダー格に、ニュー・ディール後期から第二次大戦直後迄強い労組の活動家を経験し、50年代の反動の時代に逸早く過去に未来を探した活動家学匠のデイヴィット・モントゴメリーが居る。昨年惜しくも亡くなった彼の山脈の如き労働史研究は今もその輝きを失っていないが、中でも所謂「戦闘的少数派」と彼が呼ぶ末端活動家への注目は、この文章で謂う、運動文化の現地に解放区を創り、そこで人々が運動文化を紡ぐのを手伝いながら、彼ら彼女らの小さな物語を大きな世界に繋げる大事な役割を果たした担い手への重要な指摘だ。
「多くの労働者は、毎日の出来事や世の中で繰り返される彼ら彼女らへの明け透けな扱いの違いを目の当たりにし、一つの大事な事を学んで来た。即ち確かに世の中には、個人として社会的な影響力を揮う事が出来る人達がいるけれど、自分達労働者には、一致協力して行動する他に自分達の生活で欲しい物を手に入れる事は出来ないのだという事を。家族の絆、移民同士、若い女工、職人、スト仲間、投票者、暴徒等々、労働者が一緒になって動く時そうするには夫々色々な理由があって、一括りにする事は難しいけれど、それでも個人主義という物は生れ育ちの良い金持ち達にしか関係のない事だと、固く信じている点では一緒である。階級意識というのは、日常生活の中から自然と生れ出る物ではない。そこには働き掛けというものがなくてはならない。労働者階級の活動家達、或いは他の階級の出身ではあるけれども、労働者の運動に大いに触発され活動家となった人達、これらの人達は、働く人々の間に、一緒に何かをする感覚とそこに共に目指すべき物があるという意識を持たせようと、弛まぬ努力を続けて来た。そのためにこれらの活動家達は、或る者は労働者に語り掛け、ビラを撒き、ストライキを手助けし、集会を行って来た。又或る者は、読書会を開き、軍隊式の教練を催し、ダンスや運動、コーラスのクラブを作り、協同組合を興してお店をやって来た。これらの活動家達にとって、これらの活動はそれ自体をうまくやろうと思っていたのは勿論、出来得ればそれらを通じて参加する労働者やその家族、そしてコミュニティ全体が、社会という物の見方、「労働者の解放」に至る道程についての考え方を分ち合えるようになることを望んだのである。(この頃盛んに言われる一般民衆の動向やその背景に注目する:篠田)「下からの歴史」(history of bottom up)に夢中になったり、合いも変わらず偉大な指導者の功績に拘っていると、20世紀のサンディカリスト達が「戦闘的少数派」(Militant Minority)と呼んだ人々、即ち職場の同僚や近所の住人を、自分達が何をすべきかを自覚した労働者階級へと繋ぎ合わせようと必死に頑張った彼ら彼女達のこうした決定的な役割というものがぼやけてしまう。」(Montgomery 1987)
長い引用で申し訳ないが、譬えこれ以上の分量で自筆してもこれに勝る雄弁さは得られない。最後に出て来る「サンディカリスト」は深く考えなくて宜しい。かの産業民主主義の泰斗ウェッブ夫妻も、サンディカリストとは労働運動の現状に不満な人々の総称と喝破する。寧ろここは、労働運動の核心は労働者が自身の体験共有から学ぶ集合的自己教育にあると考える人達が、その重要な担い手として「戦闘的少数派」という草の根活動家を大事にしていたと解せば良かろう。それよりこの文章で思い起こすべきは、此れ迄言及した運動文化や解放区の運動横断性だ。つまりモントゴメリーはこの文章を労働組合運動史の文脈で綴ったけれど、それは英国から新たな労働史を世界に発信し、モントゴメリーもその強い影響下にあったE.P.トムソンの「労働者階級とは本人達の自覚の産物でありそれは時と場所で変わる」という階級の可塑性の考え(トムソン 2003)に則った新労働史であり、その意味で労働運動史は必ずしも労働組合運動史である必要はない。その延長上として、これまでの論旨を踏まえ戦闘的少数派が形成を助けた物がそれ即ち先の解放区の創出であり、運動文化の陶冶であり、改革伝統の継続に当たるものである事を認めるならば、こういう戦闘的少数派の存在は農民運動にせよ、公民権運動にせよ、女性運動にせよ他の運動領域にも広範かつ数多に見られる筈であり、それらが繋がり支え合う世界は所謂労働運動を超えて広大であったろう。
この事は、この「戦闘的少数派」が、イタリア左翼の指導者であり理論家であったアントニオ・グラムシが一世紀近く前からより普遍的かつ歴史的な存在として指摘した、欧州の大きな物語ではこれまで必ずしも諸手を以て歓迎されてきたとは言い難い活動家群即ち「有機的知識人(Organic Intellectuals)」の米国的有り様だということが思い起こされて来る。モントゴメリーの批判的後輩の一人ジョージ・リプジッツの言を聞こう。
グラムシによれば、有機的知識人は、「知識人」として公の地位や雇用を得ている訳ではない。けれども有機的知識人は、みずからが属する階級が持つ諸々の思想や熱望を方向付けている。その有機的知識人が行なう活動の中で欠かせないのが、社会へ働き掛けるため行動することである。有機的知識人が行なうのは、世界を分析し、解釈することだけではない。有機的知識人は、社会に向かって主張する中で己が思想を形造り、それを多くの者に語り掛ける。グラムシは言う。「この新しい知識人は、その場限りの煽動のためにただ雄弁であればそれでいいというものでは最早ない。この新しい知職人は、運動の建設者として、組織者として、そして「永遠の説得者」として、人びとの実際の生活の中に深く関わっていかねばならない」。後援者や大学、あるいは文化団体に支えられている伝統的な知職人という者は、この人びとの実際の生活というものから離れて居られる。けれども有機的知職人は、世界を変えようとして初めて世界を学ぶのであり、又自分が属する社会集団には何が必要で何を欲しているのかという観点から、世界を学んで初めて世界を変えるのである(Lipsitz1988)。
前に小田実が指摘した、離れた場所でこれまで互いの存在を知らないのに、一目会って同じ闘いの現地を持った仲間として互いを見出したブラック・パンサーや三里塚の人々とは、こういう人達ではなかったか。