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4:小さな物語が繋がり支え合う大きな世界の労働運動(3)<3/5>

4.「小さな物語」を繋ぎ合せる人々の系譜  

前節では巨著『大阪社会労働運動史』に描かれた、「セカンドメトロポリス」と呼ぶべ き、民衆のエネルギーがその地の政治経済、社会文化の水準を世界都市の1つに迄 押し上げた「民都」大阪で、社会労働運動が如何に広範かつ横断的であったかを、目 次からその溢れんばかりの様子を垣間見た。そしてもう1つ、この本文を読むと目立つ のは、この広く深くかつ錯綜する社会労働運動空間を、縦横無尽に動く数多の活動家 の存在である。同時に屡単純な争議やデモ記事を暫し熟考すれば、容易に想像し得 る地域の多岐重層な運動基盤、即ち現場でその時々の運動需用に合せて、党派や組 織以上に濃密な人間関係に頼りながら、物心両面に亘る運動資源を調達する彼等彼 女等の驚くべ運動兵站網(ロジスティック・ネットワーク)の存在である。言い換えれば大 阪の豊穣な運動空間は、これら地域の現場活動家のネットワークの事であり、彼らが日常的に紡ぐ運動ウェッブの集積に他ならない。  

こうした運動世界とそこで生起する事象は勿論の事、その原因を構成する政治経済 や社会文化更には技術に迄及ぶ広範な専門知を兼ね備え、様々な運動関係者間の 橋渡しが出来るコーディネーター型の活動家というのは、それこそ前節、前々節で言及 した自由民権運動から平民社型運動の地域的波及を経て、1910年代後半から30年代後半には大阪を筆頭に、全国で多かれ少なかれ見られた運動風景だった。そ れは又戦後それこそ前篇冒頭で、日本が自身と誇りを持って欧州が牽引していた世界 の社会労働運動の「はみだし」者たらんとしていた時代にも、引き継がれていた。

この時代がつくり上げたプラス遺産として、職場活動家層を末端で、つまり職場次元で次々に生み出していったことを評価すべきです。この職場活動家層の誕生については産業別、企業別の極端なアンバランスが確かにありますが、労働運動全体を見るとき、こういう層がしだいにこの時期に形成されていったことを重視すべきでしょう。この職場活動家層には、社共在籍の人もおりますが、数的には無党派型の職場活動家が非常に多く誕生したといえると思います。……このような職場活動家層がしだいに登場してくると、地域共闘といったところにも眼が向いてきます.折から原水禁運動をはじめ、50年代前半に芽生えたいわゆる″平和と民主主義″型の国民運動から次々に各種のテーマが出てくる。地域活動家の必要も増大する。こうした状態のなかで、地域活動家にはこの職場活動家層のなかで地域活動のほうにより関心を持つ人が横すべりした人も確かに相当数あります。またこの時期の地域活動家には、共産党でパージされた人、あるいは残っていた人たちもかなり多く、はじめのうちは地域活動のイニシアはむしろここにあった。50年代前半の終わりごろぐらいになると両者が合流するようになったと私には見えました。」【清水慎三「50年代前半の労働運動(高野時代)は何であったか」47~8頁】

清水が高野時代が育んだ地域のコーディネート型活動家群について語った部分だ。高野総評の内外において、全国の職場や地域で、様々な活動を通じて労働者は勿論周囲の人々の間に、当時高野が唱導した「労働者のモラル」、即ち労働運動が全ての国民の幸福追求に関わっていくという高い志とその担い手として労働者の生き様に誇りを持つという気構えを浸透させるために、大きな役割を担った現場活動家集団。この存在に着目した清水の言は、当時から今日に至る迄、企業別組合幹部論や産別幹部論を含めて日本のユニオン・リーダー論が幹部クラスに集中している中、異色を放つと同時それ即ち、幹部層ではなく現場活動家層に支えられた高野総評の「はみだし」ぶりを表している。同時にこうした橋渡し型の現場活動家集団は、高野総評が県評、地評、地区労や各種のカンパニア(課題別活動・闘争)組織を立ち上げる事で、活躍の場を次から次へと与えられて行った。そして平和運動から地域の助け合い運動まで、労働者の文化活動から子供の教育を考える父兄の集まり迄、これらの組織を通じて活動家達が、労働者のみならず、国民大衆の日常生活のあるとあらゆる場面を捉えて、労働者のモラルの伝播に繋げようとしていったところに、高野総評の真骨頂が発揮されていった事も確かだ。

ただ清水は、これにつづく文章で、高野総評を斯くの如く支えた現場活動家集団の拠って来る処について、興味深い言及を行っている。

「いわゆる高野派集団は、組合幹部派閥としての高野派は別として、だいたいこの地域活動家層に、それも組合の地方組織を主たる場としながら全体の系譜としてはそちらに流れて行った人が、より多かったのではなかったかと思われます。ということは、高野さんの最後のころいちばんたのみにしたのは、活動家層なんですが、それをまず職場活動家層としてつかみ、そして訓練し、育てるということはしないで、彼の表現でいう「イニシアチブ・グループ」、つまり革命主体としてとらえ、それにのって突っ走ろうとした。高野思想でいえば、猪俣都南雄直伝の横断左翼・機能前衛の考え方にこれを直結させておったように思われます。」【清水慎三「50年代前半の労働運動(高野時代)は何であったか49頁」

「革命」と云う単語に驚く必要ない。現代用語で言えば「運動」という意味であり、何かを変えようとしない運動はあり得ない。それよりも気になるのは「イニシアチブ・グループ」であり、「猪俣都南雄直伝の横断左翼・機能前衛」と「直結」するという件だ。これはどういう意味なのか。そこで清水同様矢張り高野のブレーンだった高島喜久男に訊こう。

高野のイニシアチブ・グループという考え方について、書いておかなければならない。当然、高野 は、そういう考え方のヒントを猪俣都南雄に得ている。猪俣、「あらゆる組合の中に見出されるべき先進分子が、おたがいの闘争の応援、お互いの運動の協議、連絡のためにとる行動は、おのずから(労働者相互のあいだの)1つの新しき結合の端緒となる。」(『現代日本研究』所収「統1戦線と前衛結成――その交互作用の促進」)こういうひとつの「端緒」として、イニシアチブ・グループはあった。そこには、いわゆる共同闘争というだけでなく、高野がのちにいう、″街ぐるみ″ということもあったし、また争議団同士、とくに小争議団の相互の結合ということもあった。……このようにして、進歩的労働者は、「プロレタリア運動の、全体……どの組織のなかをも貫いて、真の左翼傾向を代表して」、「全運動を貫いて、しかも、そのひとつひとつ、ひとりひとりが、大衆の中にあり、かつ、大衆的基礎を有するが故に、全戦線を統1にまで高めていくところの、槓桿となり、楔となる。」(猪俣前出書)ひとりひとりの労働者が、槓桿、楔としての、そういう役割をはたすものとなる。しかも、それが、なんらかの組織の組織的発動によってではなく、ひとりひとりの労働者が、自分で考え自分で発動する。高野の、のちの言葉でいえば、自分ひとりの行動をつねに天下にかかわらせて見、世界の動きのなかの1部としてみる。労働者がそういうものとなるべき可能性をもった、その萌芽、1部となる。高野は、そこに、イニシアチブ・グループの意義を見ようとした。【高島喜久男『戦後労働運動私史 第2巻 1950―1954』東京:第3書館、1993年、135~6頁】

猪俣津南雄は戦前非共産党系社会主義者集団の労農派に属した学者だが、労働運動のみならず農民運動にも造詣が深く、又早くから中国革命との連帯を唱導する等、 同集団でも異彩を放っていた。高野実は1921年の早大在学中から当時早大政経学部で農業経済を講じていた猪俣の知己を得、その後も固い運動師弟関係で結ばれ、前節大阪運動史で言及した人民戦線迄一心同体とも呼べる連携で、戦前社会労働運動における下からの統一戦線行動で創造性を発揮した。そして高島が述べる如く、猪俣・高野という師弟が得意とした彼等の労働運動モデルには、当然戦前戦後を通じて連続性があったのだが、高野の言葉で云う「イニシアチブ・グループ」、そして猪俣の言葉で云う「横断左翼」「機能前衛」によって描かれた現場活動家の有り様は、正に前述の地域におけるコーディネート型或いは橋渡し型の現場活動家それであり、それらは当時の共産党系組織や非共産党系社会主義運動のモデルから、「はみだし」ていた。

恐らく、ここで描かれた労働運動モデルに最も近い歴史的用語を強いて当て嵌まれば、サンディカリズムであろう。それは、運動経験から端を発した自主的な勉強会を含めて、個々人の体験に基づいた自発的な活動を最も大切にし、そうしたグループが無数に広がりながら対等に共存しつつ、時に連携しながら全体で1つの意思を持つ事が出来、そのため前衛党組織を必要としない。実はここに、猪俣・高野の思想的ルーツが、思い起される必要がある。米国左翼との繋がりである。戦後労働運動の高野の批判的寮友、新産別の指導者三戸信人は言う。

私がつくづく感じるんですが、猪俣さんの教えを受けたと同じように、アメリカ共産主義だと、私は言うんです。アメリカ共産主義というのは、アメリカにおけるサンディカリズムの台頭におけるその精神を引きついでいるんですね。それがあればこそ、総評を軸とする産業別統1というあの人の理屈がでてくるわけです。同時にそれがあればこそ、やはりあの人の「ぐるみ闘争」というのもでてくるわけです。【高野時代の労働運動を偲ぶ」『労働経済旬報』1995年1月下旬号、第1528号、16頁】

ここでは、未だ地域別や業種別組合組織が併存していた時代に高野が打ち出した「総評を軸とする産業別統1」「の理屈」が、すべての産業を網羅した、20世紀初頭のアメリカン・サンディカリズムの「1大組合」(One Big Union)構想と重なる。また高野が提唱した1つの争議を従業員の家族や地域の住民全体支援する「ぐるみ闘争」が、アメリカン・サンディカリズムの代表組織、世界産業労働者同盟(Industrial Workers of World)が応援した1912年のローレンス・ストライキ等に見られる、出身地の違う労働者やその家族と地域住民が、街をあげて長いストライキを打ち抜く光景と重なる。  

興味深いのは、前篇で紹介したエバンズとボイドが命名した「解放区」、即ち市民が自尊心と自立心と創造力を以て、良い社会に生きたいと行動するための公共空間の系譜に、この世界産業労働者同盟が入っている事だ。又高野時代に族生繁茂し、労働運動のみならず他の社会運動の基盤となった様々な自主的サークル活動も、この解放区の特徴と共通する。更にやはり前編で述べた労働者等が解放区を設け、そこで他者と一緒に自立すると云う運動文化を紡ぐのを手助けした「戦闘的少数派」を、米国社会労働運動史上最初に多用したのが、元々サンディカリストでその後米国共産党の指導者となるウィリアム・Z・フォスターであり、彼がその活動家像を育んだ経験を自省的に綴り、ベストセラーとなった『大鉄鋼争議とその教訓』の原著は、正に高野が猪俣に初めて会った際労働運動に関わりたいと述べると、手渡された本だったとなると、この間前篇後篇で長々と説いた日米の間の「労働運動」の赤い糸が、偶然でない事が分かって来る。だとすれば、ここでこれまで同じ小節を使って叙述して来たこの日米の特色ある歴史的運動経験を、現代の文脈において、詰り市民社会と民主主義の関係に於いて、もう少し普遍化してみてもいいだろう。即ち市民社会の社会運動としての「小さな物語が繋がり支え合う大きな世界の労働運動」に付いてだ。

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