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7:現代ドイツの労使関係と労働組合 ―金属産業労使紛争におけるIGメタルの栄光と挫折―<1/2>

   神戸大学大学院国際文化学研究科准教授 近藤

正基

はじめに  

ドイツの労働運動には、長い闘争の歴史がある。 19世紀中葉の結成から第二次世界大戦までは、社 会主義運動が中心だった。度重なる政治変動の中、 ビスマルクによる弾圧をくぐりぬけ、ドイツ革命を経 て、ナチスによって解体されることになる。

第二次世界大戦後、ドイツの労働運動は社会主 義から離れて、穏健化していく。一部の研究では、日 本の労働運動との親和性すら語られるようになる。 つまり、国際比較でみると、日独ともに労働損失日数 は少ない部類に入る。両国の労組組織率に大差は ない。ナショナル・センターは弱く、「集権性」は高くな い。活動の中心となるのが、ドイツは産業別労組、日 本は企業別労組という違いこそあるものの、戦後に 限って言えば、日独の労組にはいくつかの共通点が 見出せるというわけである。  

この論考では、労働条件決定の場(協約自治)に おけるドイツ労使関係と労組(特に金属産業労組の I Gメタル)の動向を見ていく。事例としては、1984、 1995、2003年の金属産業の労使紛争を取り上げ る。金属産業はドイツの労働条件決定を主導してき た産業領域であり、2003年以降は当該産業で労使 紛争が起こっていないので、これらは直近の三つの 事例である。日本では、ドイツの労使紛争の詳細が 報道されることは稀であるので、経過をできるだけ詳 しく記述することに主眼を置く。

Ⅰ 1984年の金属産業労使紛争  

1984年の金属産業ストをめぐる動きは、印刷産業 ストの余波を受けていた。まず、印刷産業での労使 紛争を見ていきたい。  

印刷産業では、印刷労組が、週35労働時間と雇 用保護という要望を印刷産業使用者団体に表明し ていた。金属産業使用者団体(ゲザムトメタル)は対 案を出していたが、これは印刷労組にとって到底納 得のいくものではなかった。その案とは、一つは週40 労働時間を平均値として、労働時間を週単位で柔 軟化すること、いま一つはこの労働時間決定を企業 の権限とする、という内容であった。  

このように両案には大きな開きがあったが、ゲザムト メタル代表のキルヒナーは、「1分の労働時間短縮よ りも、4週間のストのほうが好ましい」と述べて、強硬 姿勢を打ち出しており、時の首相であるコールも、大 量失業時代にあってストを目論むなど「馬鹿げている し、無意味な戦略だ」としてキルヒナーを支持してい た。  

こうした使用者団体の態度を前にして、印刷労組 も引き下がらなかった。印刷労組は、ストの構えを見 せ、スト実施予定地域で「動員戦術」を開始してい く。すなわち、現場の労働者が労組の方針通りにスト を履行するために、彼らの理解を得ると同時に、スト の具体的方法について説いて回り始めたのである。 I Gメタルはこの戦術に力を貸しただけでなく、印刷 産業の警告ストに8万人を送り込んだのであった。  

1984年4月12日、印刷産業ストの幕が切って落と された。ゲザムトメタルは、ロックアウトで対抗し、この 対決は3 ヶ月間にわたる長期紛争へと発展していっ た。並行して開催された調停委員会でもゲザムトメタ ルは主張を変えず、ビーデンコップフCDU(キリスト教 民主同盟)議員による調停案も棄却されたのであ り、あくまで労使紛争を続ける構えを見せていた。  

こうした拮抗状態を、IGメタルは傍観していなかっ た。同労組も、同年5月初旬にヘッセンと北ヴュルテ ンベルク/北バーデン地域でのストを画策したのであ る。そこで、印刷労組と同様に週35労働時間を唱え るだけでなく、原投票に際して産別労組間の協力と 連帯ストの必要性を主張したのである。  

両地域の原投票ではともに85%の賛成票が投じ られ、5月14日、北ヴュルテンベルク/北バーデンで、 1万3千人の労働者によってストが決行された。ヘッ センでは、5月21日に3万3千人の労働者がストに参 加した。もちろん、ゲザムトメタルはロックアウトで対抗 したが、その対象となったのは両地域合計で延べ3 万4千人の労働者だけであった。これは、延べ39万 9千人がストに参加した労組側と比較すると、10分 の1にも満たない。労組優勢の状況ではあったが、 使用者団体は強硬姿勢を崩さず、それどころかバイ エルンやノルトライン-ヴェストファーレンでのロックアウ トを示唆して、労組にさらなる脅しをかけた。  

そうした使用者団体の戦術に対して、労組は次な る一手を打った。それがナショナル・センターであるド イツ労働総同盟(DGB)傘下の産別労組との連帯ス トである。この戦術は、金属産業以外の労働者に とっては、場合によっては経済的損失を被るだけと なる。しかし、当時は産別労組間に労働協約交渉で の方針の一致が見られたし、1956年ブレーメンの労 働協約以来、I Gメタルにはパターンセッターとしての 威信があった。そのため、I Gメタルからの連帯ストの 要望を聞き入れたD G Bは、「新しい連帯行動」とい うスローガンを打ち、ここに多くの労働者が結集した のであった。ドイツ各地で連鎖的なストが実施され、 首都ボンには20万人のD G B労働者が集まり、戦後 最大級のデモが展開されたのである。  

ストの拡大は、使用者団体はもとより、I Gメタルに とっても驚きであった。I Gメタル委員長のシュタイン キューラーは、ストを始めるにあたって「金属産業にお ける労使団体の力関係がいかなるものか、当初調査 をしていた。だが、我々の力は、ストが始まると信じ難 い勢いで増大していったのだ」と述懐している。彼の いう力の増大は、DGB内の産別労組による連帯スト と連帯デモによってもたらされたのであった。  

こうして、結局、ゲザムトメタルは調停委員会でレー バーC D U議員による提案を受諾したのであった。そ れは、労働条件の企業決定への開放は認めない、 1.5時間/週の時短を行う、この二点を内容として おり、IGメタルの当初案を基調としていた。つまり、 1984年の金属産業労使紛争は労組側の勝利に終 わったといっても誇張ではないだろう。

Ⅱ 1995年の金属産業労使紛争  

1995年の金属産業労使交渉は各産業に先立っ て実施され、パターンセッターとしてのI Gメタルの行 動に注目が集まる中、折衝が開始された。  

1994年10月に、ゲザムトメタルは「5%プログラム」 を提出しており、労働コストを総合して5%削減する ための方策を労組に諮っていた。しかし、I Gメタルの 賃上げ要求は従来どおりのものであり、労働生産性 と物価上昇率の合計である6%を最低ラインとしてい た。「5 %プログラム」を取り合おうともしないI Gメタル の態度に対して、ゲザムトメタルは非難を浴びせてい たが、IGメタルは要求が通らなければストを実施する として対抗姿勢を見せていた。事実、I Gメタルは同 年1月末にバイエルンとノルトライン-ヴェストファーレ ンで大規模な警告ストを実行し、これは2月15日には 全ドイツで27万5千人に膨れ上がっていたのである。  

こうして労使間の緊張が高まる中にあっても「5% プログラム」を堅持するゲザムトメタルに対して、IGメ タルはバイエルン・ストに踏み切る。原投票は約92% の賛成で可決され、2月24日にバイエルンで1万 3300人の労働者が参加し、21の企業で操業が停 止されたのである。3月1日には、さらに11の企業の労 働者が参加することで、ストは拡大傾向を見せつつ あった。  

ストが実施されると、ゲザムトメタルはすぐさまロック アウトの協議に入った。バイエルンの使用者は、3月2 日にロックアウト協定を締結し、労組と戦う構えを示し た。I Gメタルも、3月8日までにゲザムトメタルが譲歩しないのであれば、ストを更に拡大すると主張していた。事実、小売業や菓子産業でもストが広がりつつあり、労使紛争はますますエスカレートする気配を見せていたのである。だが、労使間の緊張の高まりは、ロックアウト宣言から数日後に急速に鎮静化していくことになる。

その原因は、ゲザムトメタル内部の混乱にあった。バイエルンの金属使用者は、即時にロックアウトを実施する予定だったが、一部の使用者がこれに反対したのである。それによって、ロックアウト実施は3月8日まで延期されることになった。そして、使用者団体は対抗措置を実施できないまま、3月6日に「前提条件なしに」再び交渉の席につくというシグナルを、労組に送ったのである。

こうして1994年3月7日には、新しい労働協約が締結されることになる。新労働協約では、同年1月から4月まで152マルク50ペニヒの特別支払、賃上げは1995年に3.4%、1996年は3.6%、職業訓練手当の3.6%引き上げなどが盛り込まれたのである。これらの内容は、I Gメタルの要望のみを取り入れたものとはいえない。けれども、「5%プログラム」の内容は何も実現されず、賃上げすら決定されたことを考慮するなら、1995年金属産業労使紛争ではI Gメタルの要求に沿ったかたちで終結したといってよいだろう。

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