Ⅲ 2003年の金属産業労使紛争
統一以降、旧東ドイツ地域では旧西ドイツ地域と は異なる労働協約が締結されてきた。旧東ドイツ地 域では、段階的労働協約が適用されており、統一以 降の東の労働条件は漸進的に西レベルへと近接す ることになっていたのである。金属産業では、1996 年以来、協約賃金は平準化されてきたが、労働時 間については事情が違っていた。旧東ドイツ地域で は週38労働時間であり、旧西ドイツ地域より3時間 長かった。
こうした問題を前にして、I Gメタルは旧東ドイツ地 域の週35労働時間を達成すべく、ゲザムトメタルと の交渉に入った。2003年2月19日にベルリン・ブラン デンブルクの金属・電機産業を皮切りに、3月24日か らはザクセンの鉄鋼産業での交渉も始まった。
元来、ゲザムトメタルもそうした時短に反対してい たわけではない。けれども、その実施時期(I Gメタル は2004年からの適用を目指していた)や拘束力(IG メタルは標準労働時間として設定すべきとしていた) については、ゲザムトメタルは労組案に納得していな かった。
相対的平和義務期間が終了すると、労組は拘束 力ある時短を即時実行すべきだとして、警告ストを実 施していく。しかし、強硬姿勢を崩さないゲザムトメタ ルとの交渉は不調に終わる。I Gメタルは5月21日に 鉄鋼産業での交渉打ち切りを使用者団体に通告 し、22日から25日に原投票が実施されることになっ た。しかし、労組幹部と組合員との温度差は当初よ り明白であった。というのは、ザクセンでは約79%の 賛成しか得られなかったからである。だが、とりあえず は賛成が75%を超えたことから、ストが決行されること になった。
6月2日に鉄鋼産業ストが開始されるやいなや、使 用者団体がこれに対抗できないことが明らかになっ た。彼らは、ロックアウト協定すら結ぶことができず、す ぐさま労使交渉の再開を求めた。結果として、6月7日 には新たな鉄鋼産業労働協約が締結されることに なる。その内容は、段階的に時短を実施し、2009年 までに旧西ドイツ並みの週35労働時間とするという ものであった。
ザクセンでの鉄鋼産業ストが終わっても、I Gメタル は使用者への攻撃を止めようとはしなかった。ザクセ ン・ストが終わったその日に、連鎖的にストを起こそう と画策していたのである。これは、I Gメタル内の強硬 派であり、次期委員長の有力候補と目されるペー タースによって主導された。ツヴィッケル委員長など 改革派はこの方針に反対したが、ペータースはほとん ど独断でスト実施へ向けて動き出したのである。そし て、次なるストの候補地には、ベルリン・ブランデンブ ルク地域の金属・電機産業が選ばれた。労組は直 ちにストの準備に入り、6月7日に原投票が実施され たが、ザクセンに続いてここでも原投票の結果は芳し くなかった。賛成は78.8%であり、かなり低かったとい える。
I Gメタルの誤算は、これにとどまらない。というの も、原投票が終わっても、ストがなかなか実行に移さ れなかったのである。原投票から10日経った6月17日に、漸く1万1200人の労働者がストを実行した。しか しゲザムトメタルの態度が軟化しなかったため、I Gメ タルはスト第3週目にはスト拡大措置を示唆し、旧西ド イツ地域とD G B傘下産別労組の連帯行動を求め た。
1984年の金属産業ストではこの戦略は成功を収 め、大規模な連帯ストと連帯デモが生じた。しかし、 2003年時点では事情は大きく異なっていた。I Gメタ ルの呼びかけは無視され、そればかりかI Gメタル指 導部に批判が集中したのである。例えば、D G Bで第 3位の規模である化学労組(IG BCE)は、シュモル ト委員長の労使協調路線のもと、鉄鋼産業での労 使交渉が混迷を極めていた5月8日に、穏当な賃上 げと職業訓練ポストの拡充で労働協約を締結してい た。彼は使用者団体以上にI Gメタルの強硬路線を 批判していた人物であったので、当然、I G B C Eは IGメタルの呼びかけを黙殺したのであった。
さらに、6月23日の自動車産業の経営協議会代 表委員会でも、I Gメタルのストに対する批判が噴出 した。また、ストの当事者である労働者も労使紛争の 早期終結を指導部に求めた。I Gメタルへの苦言が 相次ぐ状況では、ストが拡大する余地はほとんどな かったといってよい。さらには、旧西ドイツ地域の労 働者もスト拡大方針から離反し、旧西ドイツ地域での 連帯ストはごく僅かにとどまった。VW社やBMW社 では操業停止すらできないか、すぐに操業が再開さ れたのであった。
こうして苦境に立たされたI Gメタルは、2003年6 月26日にゲザムトメタルに対して予備会談を持ちか けた。ここで、新しい労組案が提示されたが、これは、 第一に、2009年までに週35労働時間を段階的に 実施すること、第二に、35時間から40時間の労働 時間回廊を設置し、これを企業の決定権限とするこ と、そして第三に、苦境条項と開放条項の利用に よって、経営状態が芳しくない企業がこの決定から 逸脱することを容認する、という内容であった。
けれども、ゲザムトメタルはI Gメタルの提案を受諾 しなかった。彼らは、直後に対案を提出する。それ は、35時間から40時間の労働回廊を設置すること では労組案と一致していたが、労働時間を週38時 間に据え置くこと、月手当は1時間減らして37時間分 とすることの二点では労組の要望とかけ離れてい た。
こうした逆提案を受けても、四面楚歌に陥ってい たI Gメタルには、もはや受諾以外に選択肢は残って いなかった。そして、6月28日、I Gメタルは使用者案 を受け入れることを発表し、IGメタルにとってストはほ とんど何の成果も得られないまま終結することになっ たのである。1954年以来、勝利の歴史を積み重ね てきたI Gメタルは、49年ぶりの敗北を喫したので あった。
おわりに
統一以降のドイツは「ヨーロッパの病人」と評され るほど長期の経済停滞に陥った。産業立地の再構 築が立場を超えた合言葉になったのはそのためであ る。そうした背景の下で、ドイツの労使関係が様変わ りしつつあることを、上記の三つの事例は指し示して いる。I Gメタルが歴史的敗北を喫した2003年労使 紛争では、それまでの事例とは異なる点が見られ た。すなわち、①産別労組間の対立(I Gメタル対IG BCE)ゆえに連帯ストと連帯デモが起こらず、②旧西 ドイツ地域や大企業の労働者による「スト破り」が見 られ、③幹部のスト方針に対する組合員の反発があ り、④ 労使交渉の方針をめぐって幹部が対立し (ペータース対ツヴィッケル)、⑤その一方で使用者 団体の足並みもそろわず、ロックアウト協定を結ぶこ とすらできなかった。
以上、本論考では、日本でほとんど取り上げられる ことのないドイツの労使紛争の経過を追ってきた。 2003年の敗北後、ヨーロッパ有数の動員力を持つ といわれるI Gメタルは苦境に陥っている。2004年に は再びストを企てたものの、原投票で否決されている し、その後は労働協約の開放を受容しており、IG B C Eの労使協調路線を事実上受け入れた格好となっている。また、スト能力のある他の産別労組、例え ば2006年に鉄道ストを打ち、リーマン・ショック以降 は毎年のように大規模な警告ストを実施するヴェル ディ(V e r . d i)にも労使交渉の主役の座を奪われつ つある。ドイツの労使関係は様変わりしつつあるとい えよう。