(公社)国際経済労働研究所 会長 古賀 伸明
「望外」「僥倖」「茫洋」「白眉」「拘泥」「隘路」「森林限界」。
この単語を見て、すぐにその人を思い浮かべるのなら、かなりの藤井聡太名人ファンだと思う。2016年10月に史上最年少の14歳2ヵ月でプロ棋士となり、翌年4月にデビュー11連勝の新記録を達成した時の「自分の実力からすると“望外”の結果」から、節目ごとに語った言葉の中の単語である。
私は以前所属した組織の月刊レポート2022年4月の巻頭言に「目が離せない天才的な若者」という表題で、その年の2月に王将を奪取し、19歳6ヵ月の史上最年少で5冠を達成した藤井聡太氏のことを記載した。
去る6月1日、藤井6冠は渡辺明名人を制し、1996年に羽生善治九段が25歳4カ月で達成した7冠制覇の記録も乗り越え、史上2人目となった。プロ棋士になってから7年足らずだ。
名人獲得の最年少記録の21歳2ヵ月を40年ぶりに更新された谷川浩司十七世名人は、マスコミの取材に「以前は記録が破られるかもしれないという複雑な思いがあったが、実力、実績、人気とも抜群の藤井さんに抜かれたのは光栄なことだと思う。今後は8冠独占の可能性もかなりある」と藤井新名人の強さを称えた。
長野県で名人を奪取した翌々日の6月3日には、その姿をベトナムのダナンでとらえた映像が報道された。藤井7冠に佐々木大地七段が挑戦する、棋聖戦五番勝負の第一局がその地で始まったのだ。息をつく暇もないほどの強行スケジュールであるが、まだ取ってないタイトルは王座だけ。いやが上にも8冠制覇への期待が高まる。
棋聖戦は7月18日に藤井棋聖が4連覇を果たし、並行して目指した王座戦の初の挑戦権も8月4日、豊島將之九段を破って獲得した。王位戦は8月23日に四勝一敗でタイトルを防衛。いよいよ前人未到の8冠制覇への大勝負になる永瀬拓矢王座との王座戦五番勝負が、8月31日から始まった。
6歳にして「しょうぎのめいじんになりたい」と書き、小学校4年の時に「名人をこす」とクラスの文集に寄せた。その夢を叶えるため、棋界の歴史を次々と塗り替え、想像を超えるスピードで偉業を成し遂げている。まだ、20歳の若者がそんなに急がなくてもいいのではないかと、いらぬ心配をしてしまう時もある。しかし、人間として大きな変化があるこの多感な時期を、将棋を通して成長する過程を私たちに見せてくれている。
1つの局面で平均約80通りの可能性があると言われる将棋は、対戦相手との対話であり、次の一手を選ぶための長考は時に数時間に及ぶ。目先に気を取られず、盤上全体を長い目で見て冷静に判断する。実力者たちが真っ正面からぶつかり合うが、彼らの将棋は相手と戦うというより、自分との戦いの中で誰のせいにもできない結果を創っていく営みのようだ。
重ねる努力は想像を絶するものだろう。窮地に陥っても、ひたむきに考え抜く姿に、私たちは感動する。人と人が精魂の限りを尽くして戦う姿は、観るものの胸に響く。
藤井名人は強さと飽くなき探究心のみならず、謙虚で素朴な人柄や冒頭紹介したように豊かな語彙力もあり、その姿勢が人間的な魅力となっている。ルールを知らない人すらも「藤井ファン」になり、将棋の裾野が広がり、楽しみ方が多様化している。食事をしたり、お酒を飲んだりしながら将棋を楽しめるバーやカフェが近年各地にオープンしている。
将棋界の頂点に立って一夜明けた取材に藤井名人は「名人を獲得できたことは、大きな達成だったが、一方でどういう状況でも対局は続いていく。技術としても未熟なところが多いと思っているので、変わらず見据えて取り組んでいきたい気持ちが強いです」と語った。全冠制覇がなったとしても、技術面だけでなく藤井流の人間的成長への努力が続いていくのであろう。
年齢を重ねていく名人が、どんな言葉を発するかは、これからも興味深い。
まだまだ目が離せない天才的な若者である。
2023.9