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所員コラム 「分かる」「分からない」 (竹内 彩帆)

「分かる」という言葉が「分からない」。それは「頭で理解していることと、体得していること・身に染みていること」の違いなのかもしれないし、そもそも「分かる」という言葉そのものへの疑いなのかもしれない。


経労研に入所して、7月で3年になる。入ってみたものの未だにこの研究所の存在がよく「分からない」。労働組合とともに労働運動のための調査研究を組合主体で実施することの意義はよく「分かる」。入所の理由は、労働組合と一緒に運動している研究所を通して、自分の関心のある社会課題に労働の観点からアプローチしたいからだった。その気持ちは今も変わらない。


私は研究者ではないけれどデータを取り分析することで見えることに感動し、研究者の目線や切り口に新しい視点を得ては刺激を受け、調査や研究といったものの意義を日々実感する。でも、きっと自分の体質として、現場で何をするのかに重きを置く傾向にあり、そこに自分が関わりたいと思っている。研究所の存在がよく「分からない」と言うとき、それは調査研究と現場と自分のあり方がうまくつながっていないということなのだろうか。


仕事に限らず、「分かる」という言葉を使うとき、それは本当に「分かっている」のか、自分は「分かっている“つもり”」になっていないのか、と常に自分に問われている気がする。職業人として、社会人として、一人間として、自分が日々目の前にしていること、自分が当たり前に思っていること・やっていることについて、改めて「分かっている」って、言えるのだろうか。


「分かる」「分からない」の海にたゆたいながら、自分の前や中や、あるいは後ろにも広がる「分かる」「分からない」ことから、「分か“っていそうなこと”」「分か“りそうなこと”」を取りあげては、「ああかなこうかな違うかな」と検証を繰り返し、アップデートして、そうやって人生は歩んでいけばよいのだろうか。

オルグ 竹内 彩帆

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