活動レポート
東京都知事選や兵庫県知事選の結果を受けて、2024年は政治や選挙をめぐる論議に何度目かの「SNS旋風」が吹く年になった。とくに今回は、選挙の結果がマスメディアによる予測(明確に表明される予測だけでなく、「おそらくこうなるだろう」という暗黙の想定も含めて)に反するものであったため、選挙とメディアの関係が質的な転換点を迎えたと言いたげな論調が目立つ。つまり、「今般の選挙でオールドメディアの敗北が明らかになった」といった論調である。これを受けて、労働組合も含め政治活動を担う人びとのなかには、「今度こそSNSに力を入れなければならない」と認識されている向きも少なくないかもしれない。
しかし、メディアの効果や受け手の心理・行動に関して、これまでに理論と実証の両面から蓄積されてきた研究の成果にもとづいて見れば、現在の「変化」はそれほど劇的なものではないし、また単純なものでもない。そもそも、兵庫県知事選以降「オールドメディアの敗北」をこぞって論じているのはまさに当の「オールドメディア」とされる各種マスメディアであり、その論調に一定数の人びとが同調している現実から考えるかぎり「オールドメディア」の影響力は健在と言わざるをえない。また、後で論じるように、選挙をめぐってSNSで耳目を集めたのは「マスメディアでは報道されない」というレトリックだが、このレトリックが機能するのはマスメディアが社会で大きな存在感を誇っている場合に限られる。誰もグルメサイトを頼りにしない世界では、「グルメサイトには載っていない秘密の隠れ家」をPRしたところでニュースバリューは生まれないし、誰も教科書を信用していない世界では、「教科書には載っていない真実」を喧伝したところで「バズる」ことはないだろう。つまり、既存勢力を仮想敵とするキャンペーンは、既存勢力が健在であるという状況に寄生することではじめて成立するのであって、既存勢力が本当に「敗北」したならばそのキャンペーンも共倒れするのである。メディアの影響力やその変化について考えるには、目の前で起こっている(ように見える)変化だけでなく、こうした理論的観点にも目配りする必要がある。
そういうわけで、今般の「選挙とSNS」論議には大いにから騒ぎの感があるのだが、SNSを起爆剤としてある程度の盛り上がりを見せる選挙が続いたことは事実であり、その盛り上がりがどのような条件のもとで起こったのかを示さなければ、たんに「から騒ぎ」と言われても読者は釈然としないであろう。以下でこの点について私見を論じたい。ここで「どのような条件のもとで」と書いたのには意味があり、選挙の候補者がSNSによって盛り上がりを作れるかどうかにはいくつかの条件があると考えられる。裏を返せば、A候補がSNSによって支持を獲得したとして、置かれた条件が違うB候補やC候補が仮にまったく同じSNS戦略を取り入れたとしても、結果はまったく異なる可能性がある。それゆえ私は、これまでSNSを不得手としていた陣営が「今度こそ」と意気込めば意気込むほど、SNSによって勢力を伸ばせる可能性がある陣営を利する結果にさえなりかねないことを危惧している。いつの時代も、「バスに乗り遅れるな」の大合唱をせき止めようとしたところでその声はかき消させるだけかもしれないが、自分の考えの整理も兼ねて書き留めておきたい。
先述のとおり、2024年の選挙、とくに兵庫県知事選の結果を受けての世間の論調は「オールドメディア(マスメディア)の敗北」である。たしかに結果を見れば、当選した斎藤元彦氏は、マスメディアではほぼ「批判一色」といえる状況であった一方でSNS上では支援の声が広がっていた。しかし、その結果だけをもって「有権者の投票行動にたいするマスメディアの影響力が低下した」と判断するのは早計である。むしろ、マスメディアの報道が有権者にある程度の影響力をもっていたからこそ、マスメディアは「敗北」したのである。「敗因」があるとすれば、それは影響力の低下ではなく、一連の報道が有権者の心理に与えうる影響を見誤ったことにある。
考えてみてほしい。ある知事選であなたはA候補を信任して票を投じ、A氏は当選して知事に就任した。その後あるとき、マスメディアがA知事にスキャンダルがあったとするニュースを一斉に報じ、A知事を首長として不適格な人物として糾弾した。このとき、あなたにとってこの報道が意味するところは、「あなたは知事として信任すべきではなかった人物に票を投じてしまった」、もっと雑駁にいえば「あなたの目は節穴だった」ということである。あなたはこれを「そうか、自分の目は節穴だったか」とすんなり受け入れるだろうか。そんな人もいなくはないだろうが、多かれ少なかれ、何かしら心理的な抵抗を感じるのではないだろうか。そのような反応は、A知事に投票した人だけに限られるものではない。棄権した人も含めて、A知事の就任を受け入れ、その行政のもとでとくに疑問を抱くことなく暮らしてきた人びとにとってもまた、報道は「あなたたちは不適格な人物に行政を任せてのうのうと暮らしてきた」というメッセージになりえるからだ。
このようなメッセージがもたらしうる影響を考えるために有用なのが、「認知的不協和」という概念である。これは、簡単にいえば「人が同時に二つの矛盾する考えを抱いて、葛藤が生じるとき」のことである(フェルドマン『なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか』講談社、p.136)。このとき、人間は矛盾する考えのうち片方を変えることで、不協和を解消しようとする。よく出される例は「酸っぱい葡萄(ぶどう)」の童話で、あの狐は「自分は(高い木になっている)葡萄を食べたい」という認識と「(高いところに届かないので)葡萄を食べられない」という認識のあいだで、不協和におちいっている。そして、後者の認識は現状では変えられない。そこで狐は、前者の認識を「自分は葡萄を食べたかった」から「本当は葡萄なんて(酸っぱい葡萄だから)食べたくなかった」へと変えることによって、「葡萄を食べられない」という認識との折り合いをつけたわけである。
A知事のスキャンダルの話では、次のように考えられる。あなたがもともと「マスメディアは信頼できる」と考えていたとしよう(全面的な信頼でなく、「まあまあ信頼できる」ぐらいでもよい)。しかし上記の報道により、マスメディアは「あなたの目は節穴だった」というメッセージを突きつけてきた。あなたが「マスメディアは信頼できる」と認識しているかぎり、「自分の目は節穴ではない」という認識とのあいだで不協和が生じる。「自分の目は節穴だ」とは認めづらいので、この不協和を解消するには、「マスメディアは信頼できる」という認識を変えるほうが簡単である。とくに今回の場合、すでに指摘されているようにマスメディアの報道にも過度な単純化があり、問題の構造が見えづらかったことはたしかであり、「マスメディアは信頼できない」という認識への転換は起こりやすかったと推測される。いわば、マスメディア不信の火種はすでにあったわけで、あとは「マスメディアが報じない真実」を喧伝するインフルエンサーがSNS上に一人でもあらわれれば、みるみるうちに不信の火が燃え広がる下地ができていたのである。つまり、もともとマスメディアからSNSへと影響力がシフトしていたわけではなく、有権者がマスメディア以外の情報源を探したくなる環境をマスメディア自身がつくってしまったということであり、仮にマスメディア側がその自覚を持たないまま情勢を読んでいたとすればその点はたしかに「敗北」であろう。
なお、念のため述べておけば、認知的不協和は心理的なストレスなので、それを解消しようとするのは人間の反応としてごく自然なことである。「ある人が認知的不協和を解消しようとして認識を変えた」というのは心理メカニズムの記述であって、「その人が不誠実にも『真実』から目を背けた」という道徳的な非難ではない。また、上記のメカニズムによってマスメディアの情報を避けるようになったとしても、必ずしもその効果は持続するわけではない。たとえば、マスメディアがA知事のスキャンダル報道について、「検証の結果、一連の報道は偏りのある報道だった」と自己評価を述べたとしよう。このとき、「マスメディアは信頼できない」と思っていた人は、「マスメディアもやっと反省したな」とその謝罪を受け入れるであろう。しかし、マスメディアは信頼できないのではなかったのか。信頼できないマスメディアの自己評価など信頼できないはずなのだから、謝罪も突っぱねなくてよいのだろうか。要するに、仮にある報道への反応としてマスメディアにたいする不信が生じたとしても、それがただちに全面的なマスメディア不信に拡張されるわけではない。私たちは、対象を信頼するモードと懐疑するモードをともに持ち合わせており、状況に応じて使い分けているのである。この点から考えても、マスメディアからSNSへの転換というような単線的な図式で事態を捉えないほうがよいことが指摘できる。
前節では、マスメディア以外の情報源を探したくなる誘引が有権者にある場合にSNSが動員力を持ちえる、という可能性について述べた。では、そのような条件が揃ってさえいれば誰でもSNSによって支持を拡大できるかというと、おそらくそうではない。というのも、仮にマスメディアにたいして懐疑的な有権者が増えたとしても、それがただちにSNSによる情報の取得につながるとは言えないからである。しばしば指摘されるように、SNSでは「興味のあるものしか見ない」ことが可能であるし、各プラットフォーマーはむしろそれを推進している(いわゆるフィルターバブル、ないしエコーチェンバー)。したがって、たんに政治家や候補者がSNSを運営したところで、その政治家や候補者にもともと興味があった一部の有権者にしかその発信は届かない。たとえば、街頭演説の動画をSNSで公開しさえすればこれまで街頭演説に来なかった有権者にまで届く、と想定するのはSNSにたいする過剰な期待である。むしろ、SNSがなくとも街頭演説に来ていた(少なくとも来たい気持ちはあった)であろう有権者がSNSでも街頭演説を聞くようになるだけ、と考えたほうが現実に近いだろう。ゆえに、既存の支持者がエコーチェンバーのなかで自足しているならば、マスメディアにそっぽを向く有権者がいたとしても彼ら・彼女らをSNSにひきつけることは困難である(この場合、有権者は何も信じられる情報源がないことになるため、投票率が低下するだろう)。新たな支持を調達するためには、支持者がエコーチェンバーの外にアプローチしなければならないのである。
しかし、エコーチェンバーの外に踏み出すのはそう簡単ではない。エコーチェンバーの外に出るということは、興味が一致する支持者たちとともに興味があるものだけを見ていられる、心地よい世界からの離脱を意味するからだ。ここで有効な推進力として機能するのが、「私たちはマスメディア(という絶大な影響力をもつメディア)に無視されている」というナラティブ(物語)なのである。実例で説明しよう。日本の選挙においてSNSによる支持拡大に成功した最初の顕著な例は、れいわ新選組だと思われるが、山本太郎氏はSNS上の支持者にたいして、「自分たちは街頭演説をしてもマスコミに取材してもらえない」、「テレビの討論番組に呼んでもらえない(から、政党の主張どころかそもそも存在も広く知ってもらえない)」といった趣旨の発言を繰り返してきた。このような発言を受けた支持者のあいだでは、「たしかにテレビしか見ていない私の家族はれいわ新選組のことをまったく知らない(だから私が伝えないといけない)」といった声が散見されるようになる。この事例から分かるのは、SNSを駆使して支持の拡大に成功する人びとは、マスメディアの影響力が弱いなどとはまったく考えていないということだ。むしろ、彼ら・彼女らは、放っておけばもともと興味のある支持者を固めることしかできないというSNSの「弱み」をよく理解している。彼ら・彼女らが発するメッセージをよく見ると(というのは、表面的な語彙ではなく、受け手のどのような行動を促そうとしているかという観点で見ると)、その内容は「(SNS自体が強力なツールだから)SNS上で拡散してほしい」ではなく、「(SNSだけではまだまだ勝てないから)SNSの外に拡散してほしい」であることが分かるはずである。
そして重要な問題は、このナラティブはすべての政治家や候補者にとって等しく説得力をもつものではない、という点である。兵庫県知事選における斎藤氏は、まさに「マスメディアでは本当のことを伝えてもらえない存在」として認識され得たがゆえに、支持者には「マスメディアの情報しか知らない周囲の人たちにも伝えなければならない」という推進力が働き、エコーチェンバーを破って支持を拡大することができた(同じく2024年の東京都知事選における石丸伸二氏の支持者に関しても、おそらく同じことがいえる)。一方で、たとえば(発言の一つひとつがマスメディアに取り上げられる)総理大臣が、SNSで「私のことをもっと広めてほしい」と訴えたとしたら、支持者から見ても滑稽なだけであろう。
要するに、SNSを使って支持を拡大しようとするならば、「マスメディアから無視されている」などのように支持者をエコーチェンバーの外に踏み出させるナラティブが必要であるが、そのナラティブが説得力を持つかどうかは当該の政治家や候補者が置かれている(と支持者が認識している)状況による。ある陣営が本当に「今度こそSNSに力を入れなければならない」かどうかは、そのような説得力のあるナラティブを当該の陣営が持ちえるのかどうかによるだろう。
このコラムでは、一部では選挙とメディアの関係が質的な転換点を迎えたと言われる2024年の選挙に関して、(1)マスメディアの影響力の顕著な低下という意味での大きな転換が起きているとは考えにくいこと、(2)SNSが支持拡大につながる動員力をもつためには、支持者をエコーチェンバーの外に踏み出させる何らかの推進力が必要であり、その推進力を持てるかどうかはそれぞれの政治家や候補者が置かれている(と支持者が認識している)状況によって変わるであろうこと、を論じてきた。
企業がウェブサイトを作成することがまだ珍しかった時代、企業ウェブサイトの成功事例という現象面だけにもとづいて生み出される「ウェブサイトの充実による顧客エンゲージメント向上」などの幻影によって(それが幻影であったことは、現在の企業ウェブサイトの使われ方を見れば分かるだろう)、どれだけの資金が費やされただろうか。ことほどさように、SNSに限らずウェブメディアは、一般的に参入障壁が低い上に利用者の拡大ペースが速いため、参入への焦りを生みやすい。だからこそ、それぞれのメディアの性質や使われ方を冷静に分析することが求められる。ある道具をうまく使うために必要なのは、その道具についてまわる幻影をまず取り払うことである。
山本耕平